メッセージ(大谷孝志師)
御言葉によって生きる
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2018年1月28日
マタイ 4:1-11 「御言葉によって生きる」 牧師 大谷 孝志

 主イエスは「四十日間、昼も夜も断食した」とあります。私は高校一年の受難節に受浸を決心しました。そして主イエスを信じられた喜びで一杯の私は、主イエスのように断食をしてバプテスマの日を迎えたいと思い、受難週に断食を始めました。しかし母に弁当を要らないと言い、その理由を言うと体の為に断食を辞めて欲しいと言われました。でも決めた事だからと言うと、母は牧師に、止めるよう私に言って下さいと頼んだのです。一人っ子の私のことが心配で堪らなかったのです。その熱意に負けた牧師が私を説得したので、三日で断食を止めました。母が真剣だったのは、私が生まれる前に、私の兄が戦後の食糧不足による栄養失調で死んでいたからでもありました。飢えとは辛く苦しいものです。今朝はこの与えられた箇所を通して、私達の信仰の在り方についてご一緒に学びたいと思います。

 主は「悪魔から誘惑を受けるため、"霊"に導かれて荒れ野に行かれた」とあります。ギリシア語聖書に「導かれ」はありません。「受ける」「行かれた」も受動態です。主は悪魔に誘惑される為に、御霊によって荒れ野に連れて行かれたのです。次の「断食した」「空腹を覚えた」は能動態です。

 私達は時に厳しい試練に遭います。試練は多くの場合、避けたい事、悪い事です。ですから、どうして自分なのか、自分だけが何故こんな目に遭わなければならないのかと思ってしまいます。そして自分や他の人を責めてしまうことはないでしょうか。しかし、私達が試練に遭う場合、主の内に、私達を試練に遭わせる理由があるのです。私達が信じている主はどんな方でしょうか。主は全てをご存知です。その主は全てを支配し、全てを御心のままに行う力と権威を持つ方です。エレミヤ29:11にこうあります。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」私達が試練に遭う時、その主の計画により、この試練に遭っていると信じることが大切と聖書は教えます。

 しかし、主イエスの十字架の死がご自身の為でなく、全ての人の為だったように、主が誘惑を受けられたのも私達の為です。主は四十日間も断食し、自分から悪魔が誘惑しやすい状態を作りました。悪魔は何故人を誘惑するのでしょう。人を神から引き離す為です。悪魔は人の世界と神の世界を行き来できます。神は何故、人を神から引き離す働きを悪魔に許すのでしょうか。皆さんは悪魔なんかいなければよい、神が悪魔を押さえ付けて働けないようしたら良いと思わないでしょうか。旧約聖書のヨブ記を読むと、神は悪魔にヨブを試みる許可を与えました。これもまた人間的に見れば不条理な出来事ですが、神がヨブに必要だから与えた試練だったのです。

 悪魔は二度主が神の御子であると知った上で、神に問題を解決して貰ったらどうだ、と言います。悪魔は、イエスが神の愛する子、御心に適う者なら、子が必要とするものを神は与えるだろうから、やってみよと主を誘惑します。私達も自力では解決できない窮地に立たされる時があります。その時を狙い、悪魔が、神が私達を愛しているなら、神はこの状態から救い出す筈だ。だから神に願ってみよと囁きかけます。悪魔は、私達の信仰が本物か、神は私達を子として扱っているか確かめてみたらと誘惑します。

 主は「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」と答えます。主が申命記8:3をもって答えたことに重要な意味があります。そこには「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉で生きることを知らせるためであった」とあるからです。私達は時に艱難辛苦を経験します。しかし、主はそれだけを与えるのでなく、その中で生きる為に必要なものを与えています。試練は私達の信仰を正し、成長させる為の訓練です。が、同時に、自分は主をどんな方と信じているか。主の招きに応え、主の弟子として従っているかを考えさせ、確認させる為の必要な試練でもあります。

 次の誘惑も第一の誘惑に似ていますが、今度は、聖書の言葉を引用して、神が必ずあなたを助けるかどうか試してみよ、と悪魔は言います。私達も、神には本当に不可能はないのか、神は私の神なのか、聖書の言葉は真実なのかと考えてしまう時があります。パウロは、聖書は全て神の霊の導きの下に書かれたと言いますが、つい、本当だろうかと考えてしまうのです。悪魔に誘惑されているのです。主は「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と聖書の言葉をもって答えます。これもまた大切な事を私達に教えます。聖書の言葉を自分勝手に解釈するのでなく、聖書によって聖書を解釈することが、悪魔の誘惑に勝つ最善の方法なのです。でも神の霊の導きの下に書かれた聖書の言葉だけが御言葉ではありません。神は説教や証し等の人の言葉を通して御心を示しています。私達は聖書を読み、説教や証を聞き、祈る時、主の御言葉に耳を傾けることが大切です。

 悪魔は最後に本性を現し「私を拝むなら、全てをあなたに上げよう」と言います。悪魔は私達をどうしても神から引き離したいのです。私達は、欲しいものは何でも自分のものにしたくなる時があります。物やお金がないと不安になり、あればあるだけ欲しくなる時もあります。それは神にでなく世のものに心を向けさせようとする悪魔の誘惑です。そのような誘惑に負けそうになる私達に主が与える御言葉が「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」です。これが出来れば私達の信仰生活は安泰になります。しかしこの世に生きる私達には出来てないと感じる時が余りにも多いのです。しかし主は、御言葉によって生きることが大切だから、自から誘惑を受けられ、御言葉をもって誘惑する悪魔を破りました。その愛の主の御心と悪魔に立ち向かう中で示した主の御言葉を心に蓄え、御言葉によってこの世で力強く生きる者となりましょう。