メッセージ(大谷孝志師)
主を神とする幸い
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2018年2月4日
詩編33:12-21 「主を神とする幸い」 牧師 大谷 孝志

 日本には八百万の神々がいると言われますが、人は何を神とするかでその人生は大きく変わります。「私は無神論者だ。何にも頼らない」と言う人も、神社仏閣に祭られる神仏は信じなくても、何かしらを自分にとっての神としています。神はカミ、上にあるものを指します。時代劇で将軍や天皇がお上と呼ばれます。お上の決めた事には絶対服従で、時には命を捨てることも求められます。カミは「私」と対等ではなく、全く違う権威ある存在だと言えます。ですからカミなのです。

 カミには別の一面があります。「お客様は神様です」と言われます。客には芸人の生活を保障する力があります。客が喜ぶ事なら、自分を殺し、嫌な事もします。しかしお客様に従うのは、権威があるからではなく、お金があるからです。客という神様に喜んで貰えると、自分が幸せになれる。ですから「カミ」様なのです。 家族の中にも「カミ」がいます。亭主関白の夫でも、自分の妻を「うちのかみさん」と呼ぶことがあります。妻と夫は家庭内の立場が異なります。家庭内では、夫は妻が「自分よりもカミ」の意識でいる方が、家庭がより平和になるからです。

 さて「主をおのれの神とする」の「主」とは誰でしょう。アブラハムを選び、一族を主の民として育て、モーセを遣わしてエジプトで奴隷にされていた民を救い出し、約束の地カナンを与えた主なる神です。その主を神とする国は幸いだと詩編の記者は言います。イスラエルの人々にとっては当たり前のことを言っていると思うかも知れませんが、それ程単純ではなく、重い意味を持つことなのです。

 「主」は確かに、私達が「カミ」と呼ぶ存在と同じです。イスラエルの人々は、主の命令には絶対服従でした。主に喜ばれることが自分達が平和に暮らすには必要なことと分かっていたからです。主は全知全能で、彼らが間違った事をすれば止めさせ、敵に臆したり、正しい事をするのを躊躇すれば、矯正したり、励ましたりしました。主は、主を自分達の神とするなら、その民を祝福する契約を結び、彼らが正しく生き、幸いな民となるよう彼らの神として働き掛けたからです。ですから、彼らにとって信仰とは、何となく信じる、皆が信じているから信じる、或いは信じないより信じる方が良いから信じるのではありません。自分達に働き掛けてくる主を自分達の神とする決断そのものが信仰なのです。信仰は賭けではなく、自分達の神と信じる主に、誠実に、忠実に生きることこそが信仰なのです。

 この詩編を読むと、私達の主がどんなに素晴らしい方が分かります。主は全ての人に目を注ぎ、人の心も業も全てを読み取ります。私達には分からないことが多いのですが、主が知っていると信じると、心から安心できます。

 記者は王は軍勢の強いことによって、勇者は力の強いことによっては救われないと言います。人を幸せにするのは能力でも財産でもありません。心が豊かになるにはある程度の物質的豊かさは必要です。しかしそれに頼ると、人は本当の幸せを見付けられず、本当の豊かさを味わえません。記者は、主の目は主を畏れる者、主の恵みを待ち望む者に注がれると言います。私達は様々なものをカミとしています。それで幸せかというと、それに振り回されたり、ストレスを感じたりしていないでしょうか。しかし主を神とするなら幸いになれます。親の心を知らない子がそれに気付くのをじっと待つ親のように、主は聖書を通し、教会の人々を通して、神としての自分を現しながら、私達が自分の意志で主を自分の神と決断する日が来るのを待っています。主を私の神とし、主に全てを委ねましょう。