メッセージ(大谷孝志師)

福音に相応しく生きる
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2018年2月11日
マルコ 2:18-28  「福音に相応しく生きる」  大谷孝志牧師

 マルコによる福音書は、主イエスが何故この世に来たのかを、パリサイ派の人々からの問題提起を用いて明らかにしていきます。先月は主が何故、取税人や罪人たちと一緒に食事をするのかという問題でした。この箇所の前半は、バプテスマのヨハネの弟子達やパリサイ人の弟子達が断食するのに、主の弟子達はなぜしないのかという問題です。断食については、ユダヤ教では年に一度「贖罪の日」が決められていて、この日断食しない者は神の民から断ち切られるとレビ記にある程厳しい掟でした。後半は、弟子達が安息日にしてはならないと定められていた掟を破った問題です。律法では他人の麦畑で手を使って穂を摘むことは認められていました。しかし安息日に刈り入れを行うことは律法で禁止されていました。弟子達が安息日に麦の穂を手で摘んだのは律法違反とパリサイ人達が非難したのです。

 これらの事は、パリサイ派の人々にすればとんでもない事だったのです。しかし聖書は、主イエスはそのような彼らの考えを根底からひっくり返す為に来たと教えています。彼らはユダヤ教徒として真面目に、一生懸命に生きていました。この点では、私達の周囲にいる多くの人々も同じではないでしょうか。勿論、世の中にも自分中心で、自分の好みに合わない人に嫌がらせとしか思えない事をしてくる人もいます。自分の利益を守るためなら、平気で嘘を付く人もいます。でも他人の為に一所懸命な人もたくさんいます。誰もが自分なりの正しさの基準をもって生きてるのです。それらの基準は、親や友達に言われたり、している事を見て、こうすればよいのだと学習して身に着いたものが多いのではないでしょうか。例えば、人の嫌がる事はしないとか、人に後ろ指を指されるような生き方はしない。或いは、他の人と同じような事をしていれば間違いないという基準を持っているのです。それらの多くは、人を見て決めた基準ではないでしょうか。

 今日の箇所でイエスに質問した人々も、ヨハネの弟子達やパリサイ人の弟子達が掟を守っているのを見て、イエスの弟子達がしないのはおかしいと考えたのです。皆が守っている規則を守らないのはおかしい、と私達も考えることがあります。しかしイエスは、そういう掟を守らなくても良くなっているから、弟子達は守らなくても良いのだと答えています。その掟は神が与えたものですが、そうしなければ、神は罪人である人を滅ぼさなければならなかったのです。だから神に罪を赦して頂く為には断食をする必要があったのです。しかし主に招かれ、悔い改めて福音を信じている弟子達は、神に喜ばれ、受け入れられているので、断食する必要がなかったのです。イエスが捕らえられ、十字架に付けられた時の弟子達は主の側にいませんでした。ペテロは主との関係を断ちました。正に、彼らから主が取り去られたのです。彼らは神に罪の赦しを請わなければなりませんでした。聖書には書かれていませんが、彼らは真剣に断食をしたと思います。

 彼らは赦されました。でも、断食をしたからではありません。イエスが十字架に掛かって死んで、彼らの罪を贖ったからです。断食という人間の行為によって神に赦されようとするのでなく、神の恵みと憐れみを信じて、主イエスを信じる信仰によって救われる道を神が与えて下さったからです。これはユダヤ教の教えを根本から覆すものです。律法を守ることによってでは人は救われず、罪の意識が強くなるだけなのです。人が救われるには、ユダヤ教という古い着物ではなく、キリスト教という新しい着物が必要になるとイエスは教えています。次の新しいぶどう酒は、福音を信じて生きることです。それをユダヤ教という古い皮袋に入れたら、納まりきれるものではありません。信徒は、主が与える新しい皮袋に福音を納めて生きる、自分を捨て、自分の十字架を負って主に従って生きる、という新しい道を歩めと主は教えています。私達も同様です。主は今も、私に従いなさいと全ての人に語り掛けています。人を見て、人にどう思われるかを第一の基準にした規則に従って生きてはいけないのです。人に認められるのではなく、主に認められ、受け入れられる道を歩めばよいのです。主は「わたしが道であり、真理であり、命なのです」と弟子達に言いました。その道がどういうものかは、聖書に記されています。聖書を通して私達に語り掛けられている御言葉を聞き取り、その御言葉に従って歩む者になりましょう。

 パリサイ人達は、イエスに何故、あなたの弟子達は規則を守らないのかと非難しました。彼らは、この社会が安心できるものであるように様々な規則が作られているので、皆がこれを守ることが大事だと考えています。それで破る者が出ないように見張り、破る者を罰しました。しかし彼らはイエスの人並みならぬ偉大さを知っていたので、先ずは理由を尋ねました。イエスは、規則は人間の為に設けられたのであり、人間が規則の為に造られたのではないと答えます。 私達も他の人に絶対守って貰わなければ困るという規則を持っていて、それを破る人がいると、許せないと思います。

 最後にイエスは「人の子は安息日にも主です」と言います。「人の子」はイエスが自分を指す時に使う言葉です。私に置き換えられます。安息日にもと言ったのは、安息日にした事が問題になっているからです。主は「わたしはいついかなる状況においても主です」という意味で言ったのです。

 弟子達はパリサイ人達とイエスの話を聞いていました。この後も、主が行う奇跡を目撃し、教えを聞き、主が支配する世とはどのようなものかを聞きました。しかし、イザヤの預言のように「聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めな」なかったのです。しかし聖霊により目が開かれ、イエスがこの世界の主であること、自分達が信じる福音の素晴らしさを知りました。彼らは福音を伝え、人々を縛り付けていた古い規則、生き方から解放しました。主を信じる人は本当の意味で自由になれると、自分達の生き方を通して証ししました。私達も心の目を開いて頂き、彼らのように福音の素晴らしさを実践して、伝える者になりましょう。