メッセージ(大谷孝志師)
真実はあなたの隣りに
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2018年2月11日
ルカ24:13-27 「真実はあなたの隣りに」 牧師 大谷 孝志

 今週14日から受難節に入ります。主の十字架の苦しみを心に刻む大切な時です。しかし私達にとって、主の十字架の死と共に、主の復活は信仰生活をしていく上で大切な事柄です。主が共にいてくれなければ私達の信仰生活は空しいからです。

 今日の箇所は、主イエスが死んで三日目、復活の日に起きた出来事です。クレオパともう一人の弟子は、この数日間にエルサレムで起きた出来事について論じ合っていました。弟子達は主イエスの十字架の死によって人生の拠り所を失ってしまいました。彼らは主イエスに全てを賭け、自分達はこれ迄歩んできた人生に終止符が打たれ、一切の希望を失ってしまったのです。 この数年間が全く無駄だったのか、自分達がそうするだけの価値があると信じ、言葉にも行いにも力が有る方と見ていたあの主イエスは本当はどんな方だったのかと考えたのでしょう。その激しいショックの中で、自分達の歩みの意味を見出し、何とかして立ち直ろうと思い、話し合い、論じ合っていたのだと思います。しかし、彼らは主イエスの十字架の死という土台の上で、論じ合っていたのです。主イエスが復活したという情報が婦人達からもたらされています。それだけでなく、仲間の数人が主が埋葬された墓に行き、復活情報を否定する根拠がないとの報告も受けていました。

 しかしそれでも彼らは自分達の村に帰ろうとしていました。復活が信じられなかったからです。十字架の死は現実と認めても、復活を現実のものとは認められなかったのです。彼らが主の十字架の死を土台として生きている限りは、主イエスと自分達の数年間の意味を見出すことは不可能だったのです。彼らはその議論に光を見出せぬまま、ただ延々と論じ合っていたのです。

 しかし、その議論を断ちきり、彼らに光を与え、真実を知らせたのが、自分達が死んでいなくなっていたと思っていた主イエスだったのです。彼らが真剣に話し合い、論議に夢中になっていたからでも、復活の主イエスの姿が生前の姿と変わっていたから、一緒に歩き始めた人物が主イエスだと分からなかったのでもありません。主は生前の姿で復活されたと考えられています。また、彼らは一緒に歩いている人と向き合って話しています。彼らは復活した主イエスと話しているのに、その方が数年間一緒に生活していた主イエスだと分からなかったのです。何故でしょうか。それは主の考えだったのです。主は弟子達に、目には見えなくても、いつも一緒にいることを、彼らに経験的に悟らせようとしたからです。

 彼らが求める真実が、彼らの隣にあったのです。しかしそれに気付かず、希望と安心を与えるその真実を求めて話を続ける彼らの様子を想像してみて下さい。主がいるのに、死んでしまった、自分達はこれから何を頼り、何をして生きていったらよいのだろうと話し合っています。それは私達の現実を暗示しています。

 主イエスは十字架に掛かって死にました。しかし生前の姿で、しかも霊の体に復活して弟子達に現れました。主は今も私達と共に生きています。私達の人生を共に歩いています。私達が人生に不安や恐れを感じるとしたら、二人の弟子達のように、隣にある真実に気付いていないからです。私達は復活した主イエスが隣りにいて、真実を教え、励まし、勇気と希望を与えようと語り掛けているのに気付いて生きているでしょうか。主が死んだままを前提に話し合う彼らと同じ事をしていないでしょうか。聖書を真剣に読み、御言葉を与えて下さいと求めましょう。真実を教える主が共にいることに気付きます。主はいつも私達の隣にいます。