メッセージ(大谷孝志師)

主にあって死ぬ者は幸い
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2018年2月25日
黙示録14:1-13  「主にあって死ぬ者は幸い」  大谷孝志牧師

 私の同盟での最初と次の赴任地には教会墓地がありませんでした。錦織教会では、最初の妻のお花料で教会墓地を建てました。土地は隣の寺の住職と付き合いがあったので、寺の墓地の中でも北上川を見渡せる一等地を3坪6畳分を18万円で分けて頂きました。昇天された方で分骨を希望した方の納骨をしました。池田教会は昔、市が市営墓地に各教会用に土地を分割していて教会員が自分達の墓を建てていました。しかし教会墓地が必要との声があり、伝道開始百年記念事業として教会墓地建設を計画し、合祀しても良いとのご遺族の了承を戴き、3区画を合わせて教会墓地を建てました。何故、教会墓地を建てようとしたかのと言えば、教会に墓地がないことに不安を持つ方々がいたからです。主あって死ぬ人は、永遠の命を頂き、天の御国で父なる神と御子イエスと共に安らかに過ごしているのですが、遺族にとっては、故人を偲ぶ場所が必要だからです。また、遺骨をいつまでも自宅におけず、どこかの墓に納めて置かなければならないからです。向島教会も備後キリスト教会共同墓苑と会堂の納骨堂に、主にあって死んだ方々の遺骨を納め、故人の生前を偲ぶ場としています。そして私達は荒川深美先生の死を記念するこの時期に昇天者記念礼拝を守っています。

 深美姉は、主に助けられてこの教会の礎を整えた方です。今は、御許でこの教会の有様を見守っていると思います。私達は机に飾られている主に愛されて天に召された多くの方々の写真を見ています。懐かしく想い出される方も多いと思います。私も両親と妻を二人天に召されています。楽しかった事、苦しかった事、喧嘩したり仲直りしたりと様々な想い出が心をよぎります。今私達が偲んでいる一人一人にも、主と共に歩み続けた人生がありました。皆、主がこの世に命を与えて誕生させ、神と人に愛され、人生を全うした方々です。それそれの歩みを懐かしく思い起こしましょう。

 さて、人は必ず死にます。死んだらどうなるのかを私達は正確に知ることができません。私達は皆、身近な人の死を経験していますが、誰も生き返って来て、死んだらどうなるのかを知らせてくれないからです。死は一方通行なのです。今日の題は「主にあって死ぬ者は幸い」です。幸いな者とは「神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒達」です。「主を信じて救われる者は幸い」ですが、主を信じて死ぬ者も幸いなのです。主を信じるなら、生きていても死んでも幸いなのです。それが私達が信じている信仰です。パウロはⅡコリント4:8,9で「私達は四方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れていますが、行き詰まることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません」と言います。彼は主を信じていますが、四方から苦しめられ、行き詰まり、迫害され、倒されました。彼は、そうならないから幸せなのではなく、そうなっても主を信じていれば幸せなのだと教えます。

 主イエスを信じる者は、どんな状況の中でも希望を失うことなく前を向いて生きられます。それだけはありません。死についても希望を持って生き、死ぬ時でも希望を失うことはないからです。人には死んだ後の事は分からないと言ったのに、どうしてそんな事が言えるのかと思うかも知れません。それは主イエスがヨハネ14:3で「私が(死んで父の家に)行って、あなたがたに場所を備えたら、(復活後)また来て、あなたがたを私のもとに迎えます。私のいる所(永遠の御国)に、あなたがたもおらせるためです。」と約束したからです。主は十字架に掛かって死にましたが、復活して弟子達に現れ、この約束した事実が確かだと示しました。パウロもイエスが死んで復活したと信じるなら、(死後の事についての)望みのない人々のように悲しみに沈むこと」はないと教えています。でも、死んだらどうなるのかは、イエスに直接聞かなくては分かりません。主イエス以外に死んで復活して人としてこの世に戻って来た人はいません。その主も復活後40日後に天に昇り、再臨の時迄、肉眼で見ることも肉声を聞くことも出来ません。それなのに、私達はどうして死んだ後の事について希望を失わずに生き、喜んで愛する人とこの世の別れをすることができるのでしょう。二千年前に主の弟子だった人々の中に、主に復活の話を聞いても疑って信じない人がいました。しかし復活の主に会い、肉眼で見、肉声を聞きました。彼は信じました。主は彼に言いました。「あなたは私を見たから信じたのですか。見ずに信じる人は幸いです。」と。私達も肉眼で主を見なくても、主が生きて自分と共にいると信じています。聖霊に助けられて、主の復活、主にあって死ぬ者の復活を信じられたからです。ですから、主を信じるならどんな状況でも生きていれば幸いだし。死んでも幸いなままだと信じています。

 聖書は「主にあって死ぬ人は幸い」の意味を更に深く教えます。主イエスと父なる神を恐れず、崇めない人々は、永遠に終わることのない激しい苦しみを味わい続けるのです。しかし、神の戒めを守り、イエスに対する信仰を忍耐して持ち続けるなら、死によってその労苦から解放され、休むことができます。黙示7:16,17にも「彼らはもはや飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊(復活昇天した御子イエス)が、彼らの牧者となり、命の水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです」とあります。主が世に生きていた時、友人のラザロが死んで四日目に主が来て、その姉妹のマルタに墓の石を取り除けなさいと言います。彼女がもう臭くなっていますと言うと、もし、あなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見ると言います。彼女達が石を取りのけると「ラザロよ。出て来なさい」と主が言い、死んでいた彼が生き返って出てきます。私達はその主イエスを、主の願いを叶えた神を信じているのです。主にあって死んだ人は幸いと信じ、安心しましょう。その主を信じ、自分が死ぬ時が来るまで、希望をもって主と共に生きましょう。