メッセージ(大谷孝志師)
心が燃える喜び
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2018年2月25日
ルカ24:28-35 「心が燃える喜び」 牧師 大谷 孝志

 クレオパともう一人の弟子は失意のどん底から立ち直ることができました。二人の心は暗く冷え切っていました。駄目だと思っていました。しかし実際は駄目ではなく、自分達が想像を超える現実が既に始まっていたのです。主が復活したからです。目に見えなくても今も自分達と一緒にいると分かった彼らは心は内に燃え、体に力が漲るのを感じました。教会の使命はこの現実、目に見えないけどこの世に起きているこの現実を知らせることです。教会はこの為に存在します。

 パウロは、キリスト者は「四方八方から苦しめられても窮せず、途方に暮れても行き詰まらず、迫害されても見捨てられず、倒されるが滅びない」と言います。彼はキリスト者は「四方八方から苦しめられないし、途方に暮れないし、虐げられず、打ち倒されない」と言ってはいません。信じていても悪い事は起きます。神は人を自由にしているからです。人はこの自由を愛の為、互いを助ける為に使おうが、自分の利益の為、自分の取り巻きを喜ばせる為に使おうが自由なのです。悪の力は制限付きでも存在し、善に親しむも悪に親しむも人の自由だからです。

 しかし主イエスが私の主、救い主だと分かると、ものの見方、生き方が変わります。人は神のかたちに造られ、良い行いをするように造られているからです。主イエスを信じると、自由を良い方向に使えるようになります。聖霊の助けを受けられるようになり、その人の本来の生き方ができるように変えられるからです。

 では、この二人はどうして主イエスが自分達の主、救い主だと分かったのでしょう。その為には二つの段階が必要と、今日の聖書の箇所は私達に教えています。先ず彼らは、イエスから聖書の意味を説明され、その時、彼らの心が内に燃えたからです。彼らは主の弟子であり、聖書の話やどうすれば神に喜ばれるかを聞いていました。しかしそれを人の言葉として聞いていたのです。私達も聖書の言葉を人生の道標となる人の言葉として読んでいては変われません。主が見えないが共にいて、私に語り掛けている主の御言葉として聞かなければ変われないのです。

 彼らはその人が主だとまだ分かりません。しかし、説き明かされた聖書の言葉が御言葉として彼らの心に響き、心が内に燃えました。私達は主が復活して、共にいると信じているから主を礼拝しています。でも、主が本当にここにいると信じて、礼拝しているでしょうか。彼らが一緒に歩いている人が主だと分からなかったのは、彼らの目が遮られていたからです。私達がここにいる主が分からないなら、目が遮られているからです。主の十字架により、私達の罪は取り除かれたのですが、まだ罪が澱のように内に残り、眼を塞いでいるのです。彼らがその人が主だと分かったのは、パンを取って祝福し、裂いて渡された時でした。これは聖餐式を表しています。これは主が私達の内に入る事を経験する式です。主が入る事は私達を聖なる者としたしるしです。それによって私達も霊的に主の存在を感じ取れるようになれるのです。私達の霊的弱さを知る主が、パンと葡萄汁という物を使ってこの霊的現実が確かなものだと分からせてくれるのです。聖餐式がそれ程大切だということを、主がこのエマオでの出来事により私達に教えています。私達は聖餐を受けた時のことを心に刻んでいます。聖餐式を思い起こし、主が私と共にいる事を心に刻みましょう。主が共にいる事実は私達の心を内に燃やします。主が共にいると実感するのは本当に素晴らしい事なのです。主が共にいると分かると、私達の人生は変わります。心に喜びを感じて生きられるからです。