メッセージ(大谷孝志師)

主を信じ救われる喜び
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2018年3月4日
使徒16:16-34 「主を信じ救われる喜び」  大谷孝志牧師

 今日は「教会のビジョンを語る会」が行われます。この教会がキリストの体である教会に相応しく成長するにはどうしたらよいかについて、前向きに、希望を持ち、主に期待しつつ意見を出し、話し合えたらと思います。

 今日与えられている聖句も、この教会に生きる私達にとって大切な事を教えています。ピリピの町で伝道していたパウロ達に占いの霊に憑かれた女奴隷が付きまとって「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです。」と幾日も叫び続けました。この人は間違った事を言っていません。でももし、教会の駐車場で「キリスト教は素晴らしい宗教です。この教会の人達はあなた達が幸せになるように神様の教えを伝えているのですよ。」とハンドマイクで叫び続けられたらどうでしょうか。近所の人はどう思うでしょうか。教会に行ってみたい。イエス・キリストを信じてみたいと思うでしょうか。私達も落ち着いて礼拝できない、教会の為には決して良い事ではないと思い、困らないでしょうか。パウロも困り果てました。彼は「この女から出て行け」と命じました。でも、彼はこの人にでなく、取り憑いている霊に命じたのです。彼女が悪いのではない、むしろ彼女は苦しんでいると彼が見抜いたからです。

 聖書は、この後に起きる出来事を通し、これが神の計画だったことを私達に教えます。女奴隷の占いで多くの利益を得ていた主人達は儲ける望みが無くなり、パウロとシラスを捕らえ、長官達に訴え出ました。ピリピは植民都市なので、ローマから長官二人が派遣されていたからです。群衆も二人に反対したとあります。ローマは他民族独自の宗教に寛容だったのですが、キリスト教には暗く陰湿なイメージを持ち、人肉を食べる、幼児を嗜食する、近親相姦をするとの噂に惑わされ、悪い印象を持っていました。聖餐式、献児式、互いに愛し合う愛が、誤解の種になっていたからです。

 長官達は騒動を恐れて、二人の着物を剥ぎ、何度も鞭打ってから、二人を奥の暗いじめじめした牢に足枷を掛けて入れたのです。「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人達も聞き入っていた。」とあります。これらの動詞は未完了形です。何も悪い事をしていないのにそんな所に入れられました。でも、彼らはそこで、祈り、賛美し続けていたのです。主を信じていた彼らだからこそできた事です。囚人達も聞き入っていました。真夜中ごろ、大地震が起きました。最悪、最低の状況の中でも神を礼拝し続けた彼らの祈りと賛美に応え、神が獄舎の土台を揺れ動かさせ、扉を全部開け放ち、囚人達の鎖を解いたのです。彼らは何故、神に祈りつつ賛美できたのでしょう。彼らが置かれた状況を御心と受け止めたからです。そして神は、大地震を起こすことで、彼らがこのような苦難を受けた理由と目的を明らかにしたのです。ここに福音とは何か、主イエスを信じる者に何が起きるのかが象徴的に表されています。

 大地震は人生に起きる出来事を象徴します。主は人生の土台を揺り動かさせられる方なのです。私達もそうですが、人生は確かで動かないものと思って安心しがちです。しかし人は、様々な事に直面し、実はそうではない、この世に確かなもの等無いと気付かされます。主が教会の存在に気付かせ、教会にこそ確かなものがあり、確かな方がいると気付かせるのです。扉は、他者と自分を隔てる扉を象徴します。誰でも、他人は自分に無関心だ、自分は孤独だと思う時があります。また、自分は主とは関係ないと思っている人もいます。主は私達の心の扉を既に開くようにしているのです。誰とでも、思いと心が通じ合えるのです。心の扉は、自分が開こうと思えば、開くようになっています。鎖は、人を縛り付けている罪と悪の力を象徴します。鎖は解けているのです。十字架と復活の主イエスにより、人は罪と悪の力から解放されています。人はそれを信じれば救われるのです。

 聖書はこの後、この牢の看守の救いを通して、主を信じる人に起き事を教えます。真夜中ですから、看守は眠っていました。大地を揺るがす大地震が起きたのですから、彼は目を覚ましました。見ると牢の扉が開いています。当然、囚人達が逃げてしまったと思います。彼は剣を抜いて自殺し掛けます。当時の看守は、囚人が逃亡すると、その囚人の刑罰を代わりに負わされたのです。それも本人だけでなく、家族にも累が及びました。自分が自殺してしまえばそれを避けられると思い、自殺し掛けたのです。パウロはそれを察知し、大声で「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫びました。彼に今起きている事の意味を知らせる為です。彼は自殺する必要はなかったのです。起きている事の責任を自分が負い、自分で解決する必要はなかったのです。私達も問題が起き、窮地に立たされた時、自分の責任として自分で解決しようとします。自分がした事は自分が解決しなければならないと考えるからです。しかし教会はそうではないのです。この問題を解決したい、この状況を改善したいと思った時、人の言動、働きが有ってそれらが解決、改善したのは確かでも、後になって不思議だと思ったことはないでしょうか。聖霊が解決、改善へと導いて下さったのです。看守はパウロに自分に見えていなかった事実を知らされました。

 この出来事からも私達はすべき事を教えられます。私達も気付かずにいる真実を知り、その真実を信じるなら、真の平安と喜びに満ちた教会へと成長できるのです。看守は人の知恵と力を遙かに超えた事が起きたと知り、パウロとシラスに「先生方、救われるためには、何をしなければなりませんか」と尋ねます。救いを求めたのです。二人は「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言い、その家の者全部がバプテスマを受け、救われました。私達は人の思いを遙かに超える事をする主を信じ、礼拝しているのです。主はこの教会を世の人々の救いの為に用い続けて下さると心から信じ計画を立てましょう。そして立てた計画を心と力を合わせ実行しましょう。主が豊かな実りを与えて下さいます。