メッセージ(大谷孝志師)
レールの上の自由
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2018年3月4日
ピリピ2:12-16 「レールの上の自由」 牧師 大谷 孝志

 神は私達に自由を与えているので、礼拝に来るのも来ないのも自由だし、自分を捨てて人を愛し、仕えるかどうかも自由です。しかしパウロは、人は自由だと思っているが、実際は、神がさせる事をしているに過ぎないと教えます。「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて、志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」とあるからです。全ては神がさせているので、人は受け身なのです。しかも「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい」と言います。不平不満を、理不尽だと言いたくなる事も神はさせるのです。神が全てを知り、全てが可能で、私達の心や体を動かして私達にさせるとしたら、私達に自由があるでしょうか。主は「真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8:27)と言い、パウロも「キリストは自由を得させる為に、私たちを解放して下さいました」(ガラテヤ5:1)と言います。この自由と私達が考える自由ではどこかが違うようです。どこでしょうか。

 教会には、自分は自由だと思う人もいれば、もっと自由になりたいと思う人もいます。他人の自由に憧れたり、嫉妬したりする人もいれば、自分は自由ではないと思っているのに「あなたは自由で良い」と言われる人もいます。自由に対する考え方、基準は千差万別と言える程、人によって違います。しかし自由は大きく二種類に分けられます。<からの自由>と<への自由>です。追い詰められ、押し潰され、束縛される状況から解放され自由になったら素晴らしいと思う時があります。それは<からの自由>で逃避に過ぎません。一時的喜びは感じても、敗北感は消えません。これに対し、人が困難であってもそこに飛び込み、その中で生き甲斐、生きる意味を見出そうとするのも自由です。これは敗者ではなく、勝者の人生を歩む<への自由>です。人は直面する事柄から逃げるも取り組むも自由です。しかしどちらを取るかで人生は大きく変わります。聖書が教える自由は<への自由>です。これこそが、私達を前向き、積極的人生へと押し出す<真の自由>です。

 パウロは「私は誰に対しても自由ですが、より多くの人を獲得する為に全ての人の奴隷になりました」と言います。奴隷となることは束縛制限を受けることで自由とは正反対と思うでしょう。しかし、人は束縛や制限があるからこそ、その中で自由に生きられるのです。人は束縛がないと放縦に陥る弱さ、欲望、欲求の奴隷になる弱さを持つからです。聖書が教える自由は<レールの上の自由>です。列車は繋がっているレールの上なら、自由にどこまでも移動できます。しかし、車輪がレールから外れたら、列車はそこで止まり、動けなくなってしまいます。キリスト者の自由もそれと同じで、主の御手の上での自由、主のご計画の範囲の中での自由なのです。ですからパウロは、人は自分の意志で自由に行動していると思っているが、全ての主導権は神が持ち、神が行わせていると教えるのです。

 この自由こそ主が十字架に掛かって死に、敷いて下さったレールの上で真の自由です。それは制限に見えますが、不自由ではありません。私達が一番幸せに生きられる自由です。このレールの上にいるからこそ、人は自分の自由を正しく使って、神からも人からも、愛され愛する生活を選び取れます。レールの上の自由は安心できる素晴らしい自由です。その上なら、止まっていることも目標に向かって前進することも、一時的に後退することも自由です。どこを走っているか分からなくなる時があっても、主が下からしっかりと支え、安心して進みなさいと私達を励ましてくれます。レールの上の自由を味わい、人生を楽しみましょう。