メッセージ(大谷孝志師)

主に選ばれた十二弟子
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2018年3月11日
マルコ3:13-19 「主に選ばれた十二弟子」  大谷孝志牧師

 私達は今、主を礼拝しています。私は教会に行き始めた頃、自分は主に招かれているから来ているとは思ってもみませんでした。そして、主に語り掛けられ、キリスト者になりましたが、主の弟子となったという自覚も有りませんでした。皆さんも同じようだったのではないかと思います。しかしそれは人間的思いであって、真実は、主が私達を招き、主に私に付いて来なさいと言われ、主に従い、私達は主の弟子となっているのです。

 さて、主は山に登り、十二弟子を任命しました。彼らは自分から来たのではありません。主がご自分の意志で、彼らを呼び寄せたから、彼らは来たのです。私達も教会に来たのは、主が私達をここに呼び寄せたからです。もちろん、教会に行こうと決め、実行したのは自分ですし、行こうと思ったのも、誰かか何かの本に刺激されたことが切っ掛けになったでしょう。しかし、そこには主の意志があったのです。この確認が信仰生活において大切な事の一つです。何故なら、その原点に立ち返るなら、試練や困難に立ち向かえ、悪の誘惑を退け、主に喜ばれる者としての歩みを続けられます。自分が教会に来、その交わりの中に生きているのを、自分で決めて実行したと思わずに、主が自分が教会に来ることを望んだからと信じましょう。これがキリスト者として人生を生き続ける為にとても大切だからです。

 教会に行くことを止めてしまう人がいます。私と一緒に受浸した友達は、数年で教会に来なくなりました。何故止められたのでしょう。自分が主に招かれて教会に来たと信じられなかったから、としか私には思えません。主は招いた弟子達を十二弟子に任命しました。主が彼らを任命したのは、身近に置き、彼らを遣わして福音を宣べ伝えさせ、悪霊を追い出す権威を持たせる為でした。目的の第一が身近に置く為でした。私達がここに招かれた第一の目的は教会に繋がっていることなのです。主の為に何かをしなければならないのではありません。主と共にいて、主の御言葉を聞き、御心知り、恵みと平安を戴くことです。受け身の信仰生活ですが、それが第一の務めなのです。先ずは安心して信仰生活を楽しめばよいのです。自分が楽しくなければ、人を教会に誘うことなどとてもできません。主は聖書を読むと多くの人々を癒し、権威ある者のように教えています。弟子達に、主がどんな方であるかを見聞きさせるのが招いた第一の目的でした。私達も、先ずは教会に繋がっていて、教会の様々な活動を見聞きし、自分を見詰めながら、主がしている事を体験すれば良いのだと教えられます。

 次の目的は、世に遣わして、福音を宣べさせ、世の人々から彼らを悩ます悪霊を追い出す権威を持たせる為でした。主は私達に恵みと平安を与える為に身近に招いたのが最終目的ではありません。主を信じる人に与えられる幸せを知らない多くの人々が私達と同じように、闇の世界から光の世界へと解放させる為に私達が必要だから、主は私達を教会に招いたのです。

 主が十二弟子に選び、任命した弟子達を見てみましょう。最初はシモンです。主がシモンをアラム語でケパ、ギリシア語でペテロと呼ぶことにしました。最初は渾名で後に通り名になりました。彼は十二弟子の筆頭です。次のヤコブとヨハネに、主はボアネルゲ、雷の子と名づけました。サマリヤ人がイエスを受け入れなかった事に腹を立て、「主よ、私達が天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言ったからです。主のユーモアを感じます。ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人は山上の変貌、ヤイロの娘の癒し、主のゲッセマネの園での祈りに登場し、主は特別扱いしているのは、依怙贔屓ではなく、主が選んで、彼らにその務めを与えただけです。

 ペテロの兄弟アンデレはルカとマタイではペテロの次に来ますが、ここではヤコブらの後です。ヨハネでは、ペテロを主に紹介したのと五つのパンと二匹の魚を持つ少年の存在を主に知らせる重要な役割を果たします。ピリポもヨハネにだけ主と様々な対話する人物として登場します。バルトロマイは使徒名簿以外に無く、ヨハネでピリポの友人としてナタナエルが弟子として登場し、それと同一視する説もあるが定説となっていません。マタイも2章の取税人レビと同一視され、マタイによる福音書を記しました。トマスも使徒名簿以外にはヨハネにだけ登場し、主の復活を否定し、復活の主から直接教えられるなど、重要な役割を果たします。タダイ、アルパヨの子ヤコブ、熱心党員シモンは使徒名簿以外に登場しなません。最後がイスカリオテのユダです。彼は主を裏切る者として全福音書に登場し、裏切り後のユダの悲惨な姿はマタイと使徒の働きが記しています。

 十二弟子の中でペテロ、ヤコブ、ヨハネ、ユダは全福音書に登場するが、アンデレ、ピリポ、トマスは一世紀末に記されたヨハネのみがその言動を記すだけと弟子達の姿は様々です。彼らは主と共に行動しながら、私達に主イエスはどういう方か、主に従うとはどういうことかを教えています。私達も一人一人は皆違います。目立つ人もいれば目立たない人もいます。しかし十二弟子がそうだったように、私達は主が御心を行う為に招き、教育し、福音を人々に伝え、人々を悪の力から解放する為に遣わしているのです。主はこの後、十字架と復活への道を歩みます。弟子達は主イエスと行動を共にする中で訓練され、整えられていきます。彼らは完璧な弟子になったのではありません。ですから主が十字架と復活後、40日に渡って教えたのです。それでも不十分でした。ですから聖霊が降り、聖霊に満たされたから福音を大胆に語り、その日だけで3000人が弟子に加わったのです。そして聖霊が彼らを助け導いたから、福音が世界中に伝えられたのです。

 私達も主を信じ、この教会で主と共に生きています。主は私達が礼拝や集会、一人で聖書を読む中で御言葉を教え、社会の中で訓練し、弟子としての働きができるよう整えています。世の人に福音を伝える為に私達が必要だからです。私達を成長させる主に任せればよいのです。私達はその為に招かれ、今主の身近に置かれています。私達が皆主の弟子だからです。