メッセージ(大谷孝志師)
助けが必要だから
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2018年3月11日
ルカ5:27-32 「助けが必要だから」 牧師 大谷 孝志

 主イエスはペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの四人の漁師を弟子にした後、収税所に座っていた取税人レビに「私に従ってきなさい」と呼び掛け、彼は何もかも捨てて、立ち上がってイエスに従いました。主イエスはユダヤ教の巡回教師の一人で弟子を取りました。彼らは師についていく為に仕事を辞め、師と寝食を共にしました。主イエスは当時の巡回教師の中でも優れた存在でした。ペテロ達は主イエスに声を掛けられ、喜んで従ったと思われます。主は何故彼らに声を掛けたのでしょう。彼らが助けを必要をしたからです。彼らは漁師をし、取税人をし、安定した生活を営んでいました。どんな助けが必要だったのでしょう。

 レビは、主と弟子達、主に付いて来ていた大勢の人々を自分の家に招いて、盛大な宴会を催しました。経済的にも社会的にも何不自由なく見えます。これに対し、主に付いてきた大勢の人達は「取税人や罪人」と言われた人達です。彼らはユダヤ社会から爪弾きにされていた人々です。彼らが主イエスに助けを求めていたのは明らかです。彼らは主の話や奇跡を見聞きして、この方といつも一緒にいたいと願っていました。爪弾きされていても、働いて収入を得られたでしょう。しかし、それだけでは自分が生きているという実感が持てなかったのです。ただ生きているだけでは駄目なのです。彼らは主に助けを求めてきました。主は心を大切にしてくれる方です。パリサイやその派の律法学者達は、主が彼らを仲間として受け入れ、一緒に飲み食いしているのを見て、主の見識を疑いました。彼らがどんなに抵抗を感じても、主は一向に平気でした。取税人や罪人達の心を見抜いていたからです。むしろ喜んで彼らと一緒にいたのです。私達が信じる主イエスはそういう方なのです。その人々だけではありません。他人からはどう見えようとも、誰もが助けを必要としているのです。昔見た映画に今日の聖書のシーンがありました。主は赤ら顔で、なみなみとつがれたグラスを片手に放蕩息子の譬え話をし、皆真剣に耳を傾け、パリサイ派の人々が家の外から冷たい目で見ていました。彼らがどう見ようとも、取税人も罪人も皆同じ人間なのです。主はそこまで降りて来て、自分の助けを必要とする人々の仲間、友となっているのです。

 さて、レビは映画の中では主イエスを我が家に迎え、幸せそうでした。何より、世間から白い眼で見られた自分が主イエスのできになれたのですから。しかし彼は、主の最後の言葉に自分自身が主イエスを必要とする病人であり、罪人であると気付かされ、ハッとしたのではないでしょうか。主は彼の内面を見抜き、彼が主の弟子となり、悔い改め、生き方を変える必要があったから、主の助けを必要とする人だったから、彼を招き、私に付いてきなさいと呼び掛け、招いたのです。

 主は私達を見て、私に付いてきなさいと招いています。福音を宣べ伝える人が必要だから、主が私達を必要としているからです。しかし、もっと大きな理由が有ります。それは私達が主を必要としているからです。皆さんも教会を知り、教会に来てイエス様を知ると、この方を信じて付いていきたいと思ったと思います。それは主の助けを必要としていた自分の心の切なる呻きであり、叫びだったのです。主が「私はあなたを選び、招きました。それは、あなたが医者を必要とする病人だったからです。悔い改め、生きる方向を私の方に変えることが必要な罪人、私の助けが必要な人だったからです。」と私達に語り掛けていると気付きましょう。主は私達の全てを知り、私達が心から喜んで生きられるよう助けてくれる方です。