メッセージ(大谷孝志師)

主に従って生きる
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2018年3月18日
マルコ8:31-37 「主に従って生きる」  大谷孝志牧師

 今は受難節です。主イエスはピリポ・カイザリヤの村々に出かける途中で、弟子達に自分が苦しみを受け、殺され、三日の後によみがえらなければならないと教え始めました。彼らは約二年半、主と寝食を共にしていました。それでも分からなかったことが、ペテロの言動で明らかになりました。ですから主は、群衆を弟子達と一緒に呼び寄せて「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と言いました。これは私達への命令でもあります。主はなぜこのような事を命じるのでしょう。主が世に来たのは、十字架に掛かって死ぬことにより人を罪から解放し、神との関係を回復させる為です。主が、苦しみを受け、殺され、三日目に甦られたので、人は主を信じるなら、救われ、神に喜ばれ、受け入れられる者、永遠の命を得る者となれます。しかし人は、永遠の命を与えられていることを、死んだ後、復活させられることによって実感できますが、死ぬ迄はその確信を持てないのが現実です。ですから、永遠の命のことを世の人々に言っても分からないのは当然です。しかし、主を信じ、救われた者が、自分を捨て、自分の十字架を負って、主に従うなら、御霊がその人を助け、永遠の命の素晴らしさを世の人々に証させて下さいます。ですから、主は共にいる者達に、そのように命じたのです。私達も主に従い、この世で永遠の命の素晴らしさを証しましょう。

 教会にいる私達は、主イエスは復活し、共にいると信じています。イエスは教会の主ですから、主イエスと呼びます。主とは主人であり、支配者、庇護者です。私達は主がいるからこの世で生きていられるのです。その事を信じ、自分の生き方の基礎に据えるなら、私達はどんなことにも束縛されない生き方が出来ます。ですから、主は、主である「わたしに従って来なさい」と言います。弟子達も群衆も、主に従って行きたいと思うから、主に従いました。でもそれ迄の彼らは、主に従うことの本当の意味を分かっていなかったのです。ですから、主は彼らに、私に従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従って来なさい」と言ったのです。主に従うとは自分を捨てることなのです。なぜ、捨てなければならないのでしょう。人は自分の殻の中では自分が中心でいられ、自分の意志で自由に行動できるからです。主と共にいるつもりでも、自分の殻の中にいる限り、その自分に主が恵みと平安を与えることを望むだけの受け身的信仰になってしまうのです。主に従って行こうと思うなら、自分の殻から出る必要があるのです。それが人間だからです。主が支配する世界に、主のように生きるという自覚的信仰の持ち主になることを主は私達に求めます。

 なぜでしょうか。主が十字架に掛かって死んだのは、私達の為ですが、私達だけの為ではありません。滅びに向かって歩む全ての世の人々が救われ、永遠の命を得るようにと、主は今も十字架の上から見詰めています。

 私達が救われたのは、主を礼拝しているのは、イエスが主であると知ったからです。知らせる人がいたからです。その人が自分の殻から出て来て、イエスが主であると知らせたからです。殻の中、自分の為の信仰に閉じこもっていては、自分は信じて喜べても、その喜びを人に伝えようとは思えません。主を信じ礼拝するとは、主が手本を示したように、自分を捨て、自分の十字架を負うことなのです。私達も自分の殻から抜け出し、自分の為の信仰者から、他者の為、主の為の信仰者、真の信仰者になりましょう。

 弟子達は自分を捨てて主に従って来ていました。仕事を捨て、主と寝食を共にし、生活を一変させました。しかし、主が捕らえられると、彼らは主を見捨てて逃げ出し、主が十字架の上で息を引き取った時も見ていたのは女性達だけでした。危険でない時は自分を捨てられても、命の危険を冒して迄、自分を捨てられなかったのです。主は自分の十字架を負い、私に従えと言います。十字架は、死刑を宣告された者を貼り付けにする物です。十字架を負って行くとは、死を覚悟して刑場に向かうことです。主は何故、死を覚悟してご自分と共に生きることを彼らに命じたのでしょう。それは、彼らがこの世の自分の命を大切にして、主に従い切れなかったからです。

 自分の命を救おうと思う者はそれを失い。私と福音のために命を失う者はそれを救うと主が教えたのはその為です。人が命を救おう、つまり、この世で自分の命を大切に保とうとすると、神はその人には永遠の命を与えません。この世の命は死で終わりになり、人は命を失います。逆に主イエスと福音の為に死に、この世で自分のいのちを失うことになったとしても、神はその人に永遠の命を与えるので、その人は、命を失わずに済み、救われると教えたのです。主はこの世の命を例にして、永遠の命を得て生きる意味を教えています。この世に生きている人達は、永遠の命と言われても、もう一つ実感が湧きません。世の人には、自分のこの世の命が全てなのです。この命があるからこの世に生きられる、それで十分と考えるからです。

 でも主は、人に真実を知らせ、全ての人に真の平安と生き生きと生きる人生を与えたいのです。この世の命だけだと、死ねば人は滅びるだけです。だから、自分を捨てなさいと命じます。そうすれば、永遠の命の素晴らしさを知り、永遠に生きたいと思うようになるからです。主は、人がその最高の生き方を見出し、神と共に生きる者となる為に、神に遣わされて世に来ました。弟子達も理解できていません。でも、彼らが理解しなければ、世の人は救われず、永遠の命を得られません。だから自分を捨て、自分の十字架を負って、私の弟子でいなさい、そうすれば理解できるからと決心を迫ったのです。主は私達にも、自分の殻から出て私に従え、そうすれば、真の自分の生きる意味と目的が分かるからと決心を迫ります。自分を捨て、主に従いましょう。人が永遠の命を持つことがどんなに大切か分かります。永遠の命に至る門は小さく、その道は細く、見出す人は稀です。でも私達が見出せたように、可能性はあります。主の招きに応え、主に従いましょう。