メッセージ(大谷孝志師)

平和の主イエス
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2018年3月25日
マルコ11;1-11 「平和の主イエス」  大谷孝志牧師

 今日は、主イエスがエルサレムの町に入る時の話です。エルサレム近くに来た時、主は二人の弟子に「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ロバの子がつないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。もし『なぜ、そんなことをするのか』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます』と言いなさい」と言いました。私達が信じる主は、予知する力、空間を超えて知る力を持っています。人は推測しかできませんが、主は事実を知っているのです。主は様々な奇跡を行いましたが、最大の奇跡は主が十字架にかかって死んで、三日目に復活したことです。常識を遙かに超えた奇跡を私達は信じています。来週は主の復活を世界中の教会が祝います。私は最初はとても信じられませんでした。でも不思議なことに主が声を掛けてきて、私は主がいると信じました。主はなぜ、十字架に掛かって死んだけれど復活し、その事を私達に知らせ、信じさせたのでしょう。この世から争いを取り除き、平和をもたらす為です。聖書は主が、世の全てを見通す方、人知を遙かに超えた方であることを明らかにしています。それは私達に平和の主への畏れが生じることが必要だったからです。

 弟子達は、主が言われた通りのロバの子を見付け、そこに立っている人々に主に言われた通りの事を言われ、主に言われた通りに答えました。するとその人々が許し、彼らは子ロバを主のもとに引いて来ることができました。全ては主の言葉通りだったのです。私達は聖書を読んでいて、このような出来事を知ると、こんな事が本当に有ったのかと思う時があります。神が嘘を書かせたとは思わないにしても、しかしという思いが湧きます。

 実は、復活の主に会った弟子達も同じでした。目の前に十字架に掛かって死んだ主がいます。主は自分は殺されるが、三日目に復活すると言いました。そうなるだろうとは思ったけれど、目の前にいるのが、自分達と共にいた主だと彼らは信じられなかったのです。聖書は疑う者達もいたと正直に書いています。驚くべき事を体験した二人の弟子は、自分達が主の言葉を実践する中で、主が誰かを信じさせられていきます。私達も聖書を読み、不思議だ、そんな事が起きるものか、でもそうかも知れないかなと思います。聖書は、私達が信じる主は世の常識では測れない力を持つ畏るべき方だと教えるのです。ですから、聖書の言葉を受け入れ、実行するなら、私達は主の偉大さを実体験させられます。主は今も生きているからです。

 主は、彼らが引いてきた子ロバに乗ってエルサレムに入って行きました。多くの人々が自分達の上着を道に敷いたのは、Ⅱ列王9:13の新王の就任を祝う人々と同じ行為をしたからです。人々は、武力を持たずに子ロバに乗ってエルサレムに来た主が、ゼカリヤが預言した義なる方、勝利を得る、柔和な方で、平和がもたらす新しい王と信じて、喜びの叫びを挙げました。

 彼らが叫んだ「ホサナ」は<私達を救い給え>を意味します。彼らがローマの軍事的圧政と宗教指導者の搾取と抑圧に苦しんでいて、神に救いを求めていたからです。彼らは主イエスが、言葉にも業にも力有る預言者だと知っていました。その方がロバの子に乗ってきた姿を見て、神が自由と平和に満ちた新しい時をもたらして下さると感激し、興奮したのです。しかし聖書は、世の人々の感激と興奮が上辺だけのものだったことを次の日の出来事を通して私達に教えています。だからこそ、主は世に来たのです。

 翌日、ベタニヤを出て、エルサレムに行こうとした主は、空腹を覚えました。そして、いちじくの木に実を探しました。しかしありませんでした。すると主はその木を呪いました。なぜと思わされる主の行為です。次も同じです。主はエルサレムに入ると、売り買いしている者達を追い出し、台や腰掛けを倒し、宮を通って物を運ぶことを許さなかったのです。理由は彼らが神殿を強盗の巣にしていたからです。ご自分が神殿を本来の祈りの家に戻す為に来たことを公に示す為とは言え、乱暴過ぎないかと思わされます。次の日に呪った木を見ると枯れていました。これに付いての主の教えは「神を信じなさい、…心の中で疑わずにその通りになると信じる者にはそのとおりになります。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」です。主がいちじくの木に実を求めても、その木は求めに応えられなかったのです。その木と神殿で商売していた人々は、神の求めに応えられないでいるイスラエル、神の民を暗示しています。そのままでいればいちじくの木のようになると神は教えているのです。なぜなら神が求めるのは正しい信仰者、神殿が全ての民の祈りの家となることです。主はそれを求めれば、神は与え、民は神に祝された民となれる、ただ神を信じ、疑わずに求めなさいと教えたのです。

 神は民に、神の民としての実り、正しい信仰者であることを求めます。しかし彼らは、神に頼らずに自分の力で平和な生活を得ようとしています。彼らは神を礼拝していても、心が神にまっすぐに向いていなかったのです。主はその彼らを真の神の民に立ち返らせ、平和を与える為にエルサレムに来たのです。しかし、そこは世の利害を求め、自分中心に生きようとする人々で占められていました。指導者達は、神の御心を行おうとして来た主の言動を見聞きして、イエスを殺そうと相談しました。神の民は、救いの御業を阻止しようとする悪の力に支配されていました。だから、主の十字架の死が必要だったのです。私達の教会は祈りの家ですか。私達は神の宮となって、正しい信仰者としてこの世で神が求める実を結んでいますか。私達を神に喜ばれる者、神から真の平和を戴ける者とする為に、十字架に掛かって死なれた主を見上げ、主に相応しい歩みをしていますか、自分を真摯に見つめ直しましょう。そして「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と言う主に従いましょう。主は私達を真の平和で包み込んでくれます。