メッセージ(大谷孝志師)

恐れが喜びに変わる日
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2018年4月1日
ヨハネ19:19-23 「恐れが喜びに変わる日」  大谷孝志牧師

 約二千年前、主イエスは十字架に掛かって死んで三日目、復活しました。

 その日、十二弟子の筆頭ペテロは、マグラダのマリアから主の体が墓から取り去られたと知らされ、もう一人の弟子と墓に急行します。20:8に、墓に入ると遺体が無いのを見て、信じたとありますが、信じたのは主の復活でなく、墓が空だったことだけです。彼らが自分の所に帰った後、マグダラのマリアは復活の主に会い、弟子達への伝言を託されました。彼女は喜び勇んで彼らに伝えた筈です。しかし彼女からその話を聞いても弟子達はいた家に鍵を掛けて閉じ籠もっていました。ユダヤ人を恐れたからです。

 マタイによると、ユダヤ教の指導者達が主の復活の可能性を信じていました。しかし聖書は弟子達が信じられなかったことを強調します。だから、閉じ籠もっていたのです。その彼らの所に主が来ました。彼らが主の復活を信じなければ、世の人は変われないし、永遠の命を得られないからです。

 20:11-18のマグダラのマリアのように変わる必要が弟子達にあったのです。彼女は主の体が取り去られたと思い、泣きながら墓の中をのぞき込んで、主を捜しました。しかし主は復活して墓の中にではなく、墓の外に、彼女の後ろにいたのです。主は確かに生きていて、彼女が振り向くとそこに主がいました。私達が、彼女のように死んだままの主、死んで何の力もない主をもし信じていたなら、主が側にいるのが分からないのは当然です。

 泣きながら主を捜していた彼女に、ご自分を必要としている姿を見抜いた主は、彼女に会い「マリア」と呼び掛けました。私達もこの世で主を必要としています。様々な不安や恐れを感じるからです。自分で何とか処理しようとしますが、時々、いや屡々自分にはどうにもならない現実に押し潰されそうになります。だから聖書を読み、祈りつつ主を求めます。主はマリアにしたようにすぐに呼び掛けてはくれません。そんな時、大切なのは、主は死んだが復活して、私の側にいると信じることです。主は見えないけれど、私達と共にいるからです。彼女は主を見て喜びました。悲しみ、恐れが消え、喜びに包まれたのです。私達は主が支配する世界に生きています。十字架に掛かって死んだ主は、私達の日を恐れから喜びの日に変える為に、今も私達一人一人に呼び掛けています。その主の声を聞き取り、主に祈りましょう。自分の人生が驚く程に変わっていくのを実感できます。

 弟子達は、ユダヤ人を恐れて家に鍵を掛けて閉じこもっていました。人は自分の殻の中にいれば外敵に怯えることはないと思うからです。何もしなければ波風は立たないし、出なければ杭は打たれません。しかし、主は「神の御姿であられるのに、神としての在り方を捨てられないとは考えず、ご自分を低くして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自分を低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」主が自分を捨てたからこそ今の私達があるのです。

 弟子達は「私に従って来たければ自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従って来なさい」との主の言葉を聞いていた筈です。私達も彼らのように、自分を捨てられないと思い、自分の十字架を負ってまで、主に従えないと思うことがあります。私達が福音を伝えなければ、世の人々は本当の喜びに満ちた人生があるのを知らないままなのです。福音を知り、主イエスを信じると、自分が押し潰されそうな現実に直面しても、それは自分の為で、自分を愛する主が私に新しい道を歩ませようとしていると信じられ、現在と将来を安心して受け止め、動かされることなく生きられます。

 世の人々が変わる為には、私達が変わる必要があり、私達が変わる為に、彼らが変わる必要がありました。その為に復活の主はご自身がどんな方かを彼らに知らせたのです。主は鍵が掛かった家の中に入って来ました。行動を妨げられる存在がない方なのです。彼らがどんな状況に置かれようとも主は助けに来る方です。主は彼らの中に立ちました。私達は主を肉眼で見られません。この事を通して彼らに、私達に、主は常に共にいることを示しているのです。主は「平安があなたがたにあるように」と言いました。彼らに平安を与えますが、それは世が与えるものとは違います。この平安を受けると、どんな状況に置かれても心を騒がせず、恐れに負けないでいられます。主が彼らに現れたのは、恐怖に押し潰されそうな彼らを、主が共にいるから安心なのだと思わせる為だけではありません、もちろん彼らに必要な事でしたが、それは、彼らが世に出ていき、福音を大胆に伝える者とする為に必要だったからです。その為に主は平安を与えたのです。でもそれだけでは十分ではなかったので、主は手と脇腹を彼らに示しました。自分が十字架に掛かって死んだ標を見せたのです。その主が復活して彼らの前にいる、これを知ることが重要だし、必要だったからです。彼らは主を見て喜びました。素晴らしい経験をしました。でも、彼らを喜ばすことだけが目的ではありません。父が主を遣わしたように、主も彼らを遣わす為です。父が御子を世に遣わし、御子の十字架の死と復活により、主を信じる者に永遠の命を与えられる道が開かれたとの福音を伝えさせる為です。

主が直接彼らの所に来たのは、彼らに平安を与える為です。彼らは自分を捨て、自分の十字架を負って、福音を宣べ伝える務めを与えられていました。彼らは、50日後に聖霊に満たされ、患難が待ち受ける世に出て行き、全世界に福音を伝えました。しかしパウロがⅡコリント11:23-28で言うように、この務めには激しい苦難が伴いました。ローマ帝国時代、日本の江戸時代、昭和初期にも激しい迫害が繰り返されました。多くの信徒が殉教しました。でも多くの信徒が死を恐れず、喜んでその務めを果たしてきました。彼らは主に永遠の命と平安を与えられていたから、主は信徒が喜んで務めを果たせるように支え続けたからです。主は死んだが、復活し、見えないがここにいます。主は私達に「信じなさい。私は主です」と語り掛け、務めを託しています。私達も恐れずに、託された務めを喜んで果たしましょう。