メッセージ(大谷孝志師)

信じる者となる為に
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2018年4月8日
ヨハネ20:24-31 「信じる者となる為に」  大谷孝志牧師

 主イエスが十字架に掛かって死に復活したのは、人が神との正しい関係を回復し、神に受け入れられ、永遠の命を得る者となる為です。先週は三阪朋子姉が信仰告白をし、バプテスマを受け、感謝でした。主が全てを導かれました。私と彼女で準備を続け、後一ヶ月になった時、信仰告白文の準備をするので、自分で思った通りの事を書いてくるよう宿題を出しました。私はその文章を読んでびっくりしました。必要な様々な要素が的確に含まれていたからです。それも微笑ましい子供らしい表現で書いてありました。主が三阪家とこの教会を祝福し、豊かに導いていて下さっているからと心から感謝しました。でもこれはスタートです。皆さんにお願いしたい課題が二つあります。一つは、朋子姉の教会員として学びが始まりますが、祈りつつ温かく見守り、教えて上げたいことを見付けたら、遠慮無く関わって上げて下さい。もう一つは、今求道中の方々、教会員の家族の救いの為に祈り続けて下さい。その働きと祈りに、主が必ず応えてくれます。

 とは言え、主イエスが死んだけれど復活したと信じるのはとても難しいことです。主が復活した日、弟子達はマグダラのマリアから主が復活したと知らされても信じないで、戸に鍵を掛けて閉じ籠もっていました。だから、主は彼らが信じる者となる為に、彼らに現れました。今日の聖書は、トマスの主への対応を通して、主を信じるとはどういうことかを教えます。

 弟子達はマグダラのマリアの復活証言を聞きました。それでも戸に鍵を掛けて家に閉じこもっていました。彼女の証言を信じなかったからです。その弟子達がトマスに「私達は主を見た」と言います。これは18節の彼女が弟子達に言ったのと同じ言葉です。トマスも他の弟子達も共に復活証言を聞いても信じなかったことが強調されています。復活の主に会い、トマスに証言をした弟子達は一週間後も同じ様に戸に鍵を掛けていました。人が主の復活を信じる難しさが、更に強調されています。主イエスの復活を信じるのは、確かに難しい事です。しかし、弟子達が復活信仰の困難さを克服して信じなければ、福音を伝える者にはなれないし、人々が救われないのです。弟子達が信じない者でなく、主の復活と臨在を信じる者となることが必要なのです。ですから、その為に主は彼らの所に再び来たのです。

 主は傷痕を確認したいと言ったトマスの思いを受け入れています。見なければ信じられない人間の弱さを知り、更に<百聞は一見に如かず>と言っても、人は見ただけでは、幻や見間違いと思い、やはり信じられない可能性が有るのも知っていました。私達の主は全てご存じなのです。彼は指を釘跡に差し入れ、手を脇に差し入れてみなければ決して信じないと言いました。残酷な話です。人は、主の復活を、自分が信じるに足る証拠が無ければ信じられないのです。聖書がトマスのこの言葉を記すのは、主の復活を信じない人は、彼と同じ事を主に要求しているのと同じと教える為です。

 私達は、このトマスの言葉を通して自分の信仰を顧み、彼の思いと同じ思いか吟味し、世の人に確信をもって主の復活を証し、主の臨在を確信し、喜んで福音を伝える者になる為に、心から主の十字架を仰ぎ見ましょう。

 主は復活の8日後、今度はトマスが他の弟子達と一緒にいる所に来ました。戸に鍵が掛けられていました。彼らは復活の主に会い、平安と務めを与えられました。でも変われなかったのです。彼らの心の頑なさが破られる為には、主の再度の来臨が必要だったのです。聖書はこの来臨がトマスの為だけでなく、他の弟子達の為だと暗示しています。主はトマスに言いますが、その言葉は、他の弟子達、そして私達への愛に満ちた言葉なのです。ここに示されている彼らの心の鈍さと頑なさを、私達の心の鈍さと頑なさと捉え、その私達への主の憐れみに満ちた眼差しを感じ取りましょう。

 主が差し出した両手には、釘で打ち抜かれた痕があり、脇には槍で突き刺された痕があったことに大切な意味が有ります。主は十字架上で受けた傷痕を残したまま復活しました。その事は、肉体に損傷や障碍を受けて天に召された人が、その傷のままで復活すると聖書が教えているのではありません。主が傷痕を示したのは、幽霊ではなく、体で復活したことを明らかにする為であり、トマスに十字架の傷痕に触れさせようとしたのは、彼に主の十字架の死と復活の意味を、深く理解させようとしたからです。

 私達もこの箇所を読み、主の十字架の死と復活を確信します。しかし主はなぜ彼に、傷痕に触れさせようとしたのでしょう。主は死んで復活した事だけを知らせようとしたのでないからです。この傷が彼の為であり、彼の為に主が苦しんだことに気付かせる為です。主は彼を神に喜ばれる者とする為に、十字架に掛かって死んだのです。彼の為に十字架で傷付けられ、苦しみを味わったのです。主が十字架に掛かって死ななければ、彼と神との関係は断絶されたままでした。主の死により、神との関係回復の道が開かれたのです。主が復活し、彼にその道を歩ませるので、彼は命の門から神が支配する国に入れるのです。主は「不信仰者になるな、そうではなく信仰者になれ」と彼に呼び掛けます。これは熱い主の愛が溢れた言葉です。彼が信仰者にならなければ、彼に注いでいる主の愛が無駄になるからです。

 彼と他の弟子達は、主が十字架に掛かって死んだのは自分達が罪人だったからと気付きました。それ迄は主が死んだことによって生じる危険しか頭になかったのです。主の十字架の死が自分の罪の為と気付くこと、これは私達にとっても非常に重要な事です。彼は十字架の傷痕を見て、「私の主、私の神よ」と答えます。主が十字架で死んで復活し、共にいる意味が分かったからです。彼は、今主を目にできない私達の為の証人なのです。主は、私達が「主が私の為に十字架に掛かって死に、復活して共にいる」と見ないでも信じるなら、幸いな者になれると言います。聖書が証ししています。主の復活と臨在を信じましょう。信じれば私達の人生が確実に変わります。その為に、主は十字架に掛かって死に復活し、今も私達と共にいるのです。