メッセージ(大谷孝志師)
先ず福音を伝えよう
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2018年4月8日
ローマ10:11-18 「先ず福音を伝えよう」 牧師 大谷 孝志

主イエスは「すべての人の主」とあるように、日本人にとっても主なのです。誰でもイエスを主と信じて、私の主よと呼び求めるなら、その人に豊かに恵みを与えるとパウロは言います。しかし世の人は、私達も昔はそうであったように、聞けなければ信じられないし、信じなければ呼び求めることなど出来ません。ですから宣べ伝える人が必要なのです。でもどうすれば宣べ伝えられるのでしょう。

 私達は家族や友人知人、地域の人達が救われることを願います。福音を伝えたいと思います。でも、思いはあっても実行できないもどかしさを感じています。でも、なぜ実行できないのでしょうか。主は、世の人を救う働きをさせる為に、弟子達を世に遣わしました。彼らが主の十字架の側にいなかったのは確かです。遠くから見ていたとも聖書に記されていませんが十字架に掛かって死に、葬られたのは知っていた筈です。聖書は彼らが復活証言を聞いても信じなかったことを繰り返し記します。彼らは復活の証人となり、全世界に出て行って福音を宣べ伝えました。彼らは変えられました。女性達の復活証言を聞いても信じず、直接主にあっても疑い、彼らの中に立っても、主の復活を確信できずにいた弟子達です。

 聖書には主がその彼らへの度重なる働き掛けが記されています。彼らに近付き、彼らを福音宣教へと押し出すのです。彼らが信じられないでいます。疑っていますが、そんな事を主は全く問題にしません。彼らは既に主に選ばれてみ側に置かれているのです。主が宣教に遣わす為に選んでいたのです。彼らは主と行動を共にし、教えを聞き、奇跡を目にしています。主と共に歩む彼らは、常に主の愛に包まれていたと言えます。教会来ている私達も主の愛に包まれています。私達の多くは選ばれた、招かれた確信は薄いと思います。それに、主の臨在を疑い、御心が分からなくなり、悲しみや痛みを感じ、愚痴る場合もあります。しかし、教会に来ると慰めや励ましを与えられることはないでしょうか。エマオ途上の弟子達のように、礼拝に来て心が内に燃えるのを感じることはないでしょうか。主が共にいて、聖書の言葉の意味を説き明かしてくれるからです。主は私達に必要な経験をさせ、どんなことを経験させられても、結局は主に愛されているので平安を与えられるのです。疑い、愚痴を言い、不信感を持ちますが、主は私達を切り捨てません。慰め、励まし、立ち直らせます。主は私達の全てを知るからです。一人一人の内に秘める可能性を私達自身が気付かなくても、主はご存じなのです。

 私達が礼拝や集会に来るのは、主から豊かなものを与えられるからです。教会は素晴らしい所です。パウロはイザヤ書を引用して「主よ、私達が(から)聞いたことを、誰が信じたか」と言います。世の人々に一生懸命に聞かせても、信じるところまで行かないのです。確かに信じる人は少ないのが現実です。しかしパウロは「信仰は聞くことから始まります」と言います。福音を聞かなければ誰も信仰を持てないからです。彼は「聞くことは、キリスト(について)のことばを通して実現する」と言います。主が働くから、私達人の言葉を相手が聞けるのです。それは世界中でその事が起きているとパウロは言います。先ずは私達が福音を告げることです。そこから全てが始まります。私達が福音を告げるのを待ち、私達が語るなら、主は助けて相手の心に福音を届けてくれます。また私達が福音宣教の効果が感じられないとしても、私達が告げるなら、それは相手に届いていると彼は言います。主の力を全ての人に注がれる愛を信じて、先ず福音を伝えよう。