メッセージ(大谷孝志師)

主は御心を行う
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2018年4月15日
ルカ24;13-32 「主は御心を行う」  大谷孝志牧師

 今日はエマオ途上の出来事を学びます。主イエスが復活した日に、クレオパともう一人の弟子が、エルサレムから10㎞以上離れた自分の故郷の村エマオに向かって歩いていました。14節の彼らが話し合っていた「これらの出来事」は、主の十字架の死と復活の出来事です。そこにイエスご自身が近付いて来て、彼らと共に歩き始めたのです。しかし、二人の目が遮られていて主だと分かりませんでした。不思議な事です。聖書は、ここに私達の信仰生活に起きているのと同じ事が起きていると教えています。

 二人は主と生活を共にしていました。主イエスがどんな方かを知り、十字架に付けられて死んだ主を見、復活の報告も聞いていました。しかし、自分達と一緒に歩いている人が主だと分からなかったのです。私達は主イエスを礼拝しています。聖書、説教等を通してイエスが主であり、救い主だと知っています。十字架に掛かって死んだけれど、復活したことも知っています。しかしここに主イエスが共にいること、主がこの世で生活している私達といつも一緒に歩いていると、本当に分かっているでしょうか。

 主イエスはなぜ、エマオに帰る途中の二人の弟子の所に来て、一緒に歩いたのでしょう。主が復活し、自分と共にいたと分かると人生が、生き方が変わるからです。私達も、今、主イエス、父なる神を礼拝しています。この世で生活している時、主が護って下さった、導いて下さった、主が支えて下さったという経験を何度かしている筈です。しかし、思いがけない出来事に動揺することがあります。不安や恐れに囚われ、失望したり、絶望することもあります。そんな時、主が共にいて全てを守っていると信じ、全てを主に委ねると、物事をなるに任せられ、安心できるのです。主が良いものを与え、こうなれば良いなと思う方向に物事を運ばせて下さるからです。そして「堅く立って動かされることなく、いつも主の業に励みなさい、あなたがたは、自分達の労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。(Ⅰコリ15:58)」とパウロが言う生き方が出来、「神は、私たちの主イエス・キリストによって私たちに勝利を与えて下さいました。」と感謝できるようになります。主イエスは、失意の底にいた弟子達に、そのような人生を歩ませる為、彼らを変える為に、近づき、一緒に歩いたのです。

 彼らは主に話の内容を聞かれて、暗い顔をして立ち止まりました。彼らは主イエスの事について話し合っていました。彼らはイエスが「神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者」だった事を認めています。彼らは、イエスが神から遣わされた方と皆が認めていたのに、祭司長や議員達ら神に仕える立場の人達が十字架に付けて殺してしまったと言います。自分達の立場、現状の安定を守る為、神が知らせた事実を無視したのです。主を礼拝している私達も、神が知らせた事実、御言葉を、自分の生活を守る為や世で大切だと思う事、したい事の為に無視してしまう事があります。

 彼らは主イエスに、自分達の望みを実現する方として期待していました。私達も教会に来ていて、こうしたい、ああしたいと思う事があります。これは主の御心だと思っていたのに、なぜして下さらなかったのかと失望する時もあります。彼らは、神が遣わした預言者イエスがイスラエルを解放すると望みを掛けていたのに、民の指導者達がそれをさせないどころか、十字架に掛けて殺したこと、更に、神がそれを放置しているのも納得がいかなかったのです。「そのことがあってから三日目になります」は、死者の霊が遺体の周囲に三日間留った後、御心なら神がその人が生き返らせるとの俗信を彼らが信じていたが、何も起きず、失望したからと思われます。

 次に彼らは同行者に、イエスが生き返っていると告げられたと言います。女性達と弟子達は空虚な墓を確認しただけで、復活の主にあっていません。女性達は二人の御使いに言われて、主の生前の言葉を想い出しただけです。彼らは復活証言をした御使いから聞いただけなのです。この事は、ヨハネによる福音書と同様に、見ないで信じることの難しさを表しています。

 しかし信じなければ、彼らは変われません。ですから主は、彼らが主の復活を信じる者となるよう働き掛けます。主は<イエスが十字架に掛かって死に、復活することは預言者達が言っていた事>だと言います。彼らにしてみれば、遙か昔に書かれた言葉です。私達にとっても聖書は遙か昔に書かれた書物です。主イエスは、その全てを信じれば良いのだと言います。人が真の平安と希望を持って生きる者となる為に、聖書があるのです。マルコ10:15で主は「子どものように神の国を受け入れる者でなければ決してそこに入ることはできません」と言いましたが、本当だと思わされる経験を先日しました。<負うた子に教えられる>と言いますが、素晴らしい事でした。彼らが、聖書に書かれている事を信じられなかったように、私達も幼子のように素直に信じられない、愚かさ、心の鈍さを持っていないでしょうか。

 主はその彼らに、ご自分について書いてある事を説き明かしました。でもその時は、彼らは自分が受けている恵みを悟れませんでした。その後、彼らは主の復活と臨在が分かりました。主が彼らの願いを聞いて、彼らと共に泊まる為に家に入り、彼らと共に食卓に着き、パンを取って、神を褒め称え、裂いて、彼らに渡した時でした。これは主の晩餐で、礼拝を象徴する行為です。霊の目が開かれ、同行者が主と分かった彼らは「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心が内で燃えていたではないか」と話し合い、恵みを分かち合いました。二人は変えられました。そして失意の内に去ったエルサレムに戻り、他の弟子達と喜びを共にします。主は今も私達一人一人と共に生きています。この世で生活している私達と一緒に歩いています。主は、私達が不安や恐れに負けず、より生き生きとした信徒になる為に、信仰と希望と愛に堅く立って主の業に励めるよう、見えないけれども聖書と人の言葉を通して働き掛けています。主は御心を行い、恵みと平安を豊かに与えています。感謝です!