メッセージ(大谷孝志師)
主は確かにおられる
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2018年4月15日
コロサイ1:15-23 「主は確かにおられる」 牧師 大谷 孝志

 主は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです(ヨハネ14:6)」と言い、14:8,9で「主よ、私たちに父を見せてください」と言うピリポに「わたしを見た人は、父を見たのです」と言います。主イエスが十字架上で死んだ時、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。それは神と人の間を隔てていた壁が無くなり、神の国がこの世に突入したことを表す出来事でした。確かに御子イエスの十字架の死よって、神は私達をご自分と和解させて下さいました。今、神は全ての人に救いの手を差し伸べています。しかし神の御前に、聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として立つ為には、信仰に土台を据え、固く立ち、聞いている福音の望みから外れることなく、信仰に留まらなければなりませんとパウロは言います。神の世界とこの世の間には私達人間の罪という壁が存在しているからです。しかし、人が主イエスを信じるなら、人は神の世界に生きることができます。ですから主はルカ17:20で「神の国はあなたがたのただ中にあるのです」と言いました。でも、その神の国は世の終わりに新しい天と地が到来するまでは人には実感できません。しかしこの世を覆う覆いの向こう側に主が、父なる神がいるのは事実なのです。そうでなければ、私達の信仰生活は全く空しいことになります。私達は目に見えず、実感も出来ないが、自分達が神が支配する世界に生きていること、主の愛に包まれていること、神が御心を行って下さるから、私達はこの世で生活をし、信仰を保っていられることを知っています。主は確かにいます。

 教会は、世の人に信仰の正しさ、主の実在を物理的に証明できません。それでも、教会は存続し続けています。それは御霊が働き続けているからです。弟子達は主の復活後、聖霊降臨を体験しました。人々はその物音を聞いて、弟子達の所に集まってきました。神の存在を物理的に感じ取ったのです。とは言え、それは世の人が簡単に納得できる者ではありません。聖霊に満たされた弟子達の福音宣教、証が必要でした。彼らは目に見えない神の実在を御霊によって知らされ、確信し、大胆に証し始めたのです。今日の箇所も彼らが宣べ伝えた福音の一部です。

 聖書に書かれている言葉は、人が理解できる言葉です。しかし内容は、人間の常識を遙かに超えた事実であり、それを証明無しに一方的に宣言した言葉です。福音は、世の人々が闇の力から解放される時が来ていること、自由で喜びに満ちた生活を人に可能とする道が開かれたとの知らせです。ただ、聖書はこの世の中を見ているだけでは決して理解できない事実を信じますかと、これも一方的に問い掛けてくるのです。それだけに福音宣教の働きには、パウロがUコリ12で言うように様々な激しい困難が伴います。しかし、多くの働き人がこの働きを続け、世界中に教会が立てられ、多くの人々が救われています。これも御霊の働きにより、主が自分達といつも一緒にいること、共に歩んでいると知る人々が福音を伝えたからです。エマオに戻る途中の二人の弟子に主が近付き、共に歩きました。しかし彼らはそれが主だと分かりませんでした。しかし聖書を説き明かされ、裂いてパンを渡された時、彼らの目が開け、主だと分かりました。覆いの外の世界に彼らは触れたのです。私達もその世界に触れ、キリスト者として生き、教会に連なり、地の塩、世の光であり続けています。御霊の働きに心を開きましょう。主は見えないが、共にいることに気付き、心が燃え、心が震えます。聖書に書かれていることは真実です。主は確かに私達と共いて、生活を共にしていて下さいます。