メッセージ(大谷孝志師)

真の自分を見出す為に
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2018年4月22日
ヨブ4:1-21 「真の自分を見出す為に」  大谷孝志牧師

 人生には順境の時もあれば、逆境の時もあります。その人の真価が問われ、本当の姿が現れるのは、逆境の時だとも言われます。今日の箇所で「あなた」と呼ばれるヨブは非常に多くの財産を持ち「東の人々の中で一番の有力者であった」と1:3にあります。彼は全てに恵まれていました。主は「彼のように誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない(1:8)」と言い、彼を豊かに祝していたからです。

 しかしある日、主はサタンに「ヨブは理由もなく神を恐れないでいるでしょうか。…手を伸ばして、彼のすべての財産を打ってみてください。彼はきっと、面と向かってあなたを呪うに違いありません」と言われ、彼の財産を全てサタンに任せました。そして凄まじい災難が襲い、彼の羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百軛、雌ロバ五百頭と非常に多くの僕達が殺され、七人の息子と三人の娘も死んでしまいました。しかし、彼は罪を犯さず、神に愚痴もこぼしませんでした。サタンはヨブが神を呪わないでいられたのは、体に害が及ばなかったからだと言い、神の許可を得て、ヨブに足の裏から、頭の頂まで、悪性の腫物に冒させたのです。彼の苦しみ、痛みは非常に激しく、妻に「神を呪って死になさい」と言われるのですが、彼は罪を犯しませんでした。そのヨブを慰めようとして、三人の友人が彼の所に来ました。彼らは、余りの現実に言葉を失い、七日七晩沈黙しました。

 やがて3章から彼と彼らの対話が始まりました。ヨブは先ず、自分の生まれた日を呪い、なぜ自分は生まれて直ぐに死ななかったのかと嘆きます。それ程、彼の痛みと苦しみが大きかったからです。彼は死ねば良かったのにと言いますが、決して自殺を考えていません。そうではなく、私を殺して下さいと主に訴えています。なぜでしょう。それは自分の生も死も全ては主の御心によると知っていたからです。祝福を与えるのも災いを下すのも主と知っていたからです。彼は順境の時も逆境の時も、主の前に正しい信仰を持ち続けています。彼は確かに、自分を襲っている災いに苦しんでいます。しかし、生まれて直ぐ死んでいたら良かったのにと言いますが、それは自分が死ねばこの苦痛から逃れることが出来ると思うからなのです。彼は嘆きますが、主の正しさを疑う言葉は一切出てきません。なぜなら、彼は自分には分からない災いに直面していても、神の内にその理由があると確信しているからです。そこに彼の信仰を私達は見ることができます。

 私達は困難に直面すると、動揺し、不安になり、恐れを感じます。どうすれば、平常心を持って直面する出来事に正しく向き合い、全ての事を主の御心によると受け止め、全てを主に委ねることができるのでしょうか。

 苦悩する原因と理由が分からずに嘆くヨブに、先ずエリファズが反論します。エリファズが口火を切ったのは彼が長老格だったからと思われます。彼はヨブの言葉に危険な傾向を感じ取り、彼を訓戒し、正しい道に引き戻す必要があると考えたからです。しかし彼は、慰めに来た友人達に答えを求めていないし、直接神に問い掛けてもいません。言わば独り言です。それでも友人は彼を正しい道に導かなければならいと思い、彼に下された災いは、彼が気付かずに犯した罪に対する神の裁きと教えるのです。確かにエリファズが言うように、人は神の前に清くあり得ません。ヨブが罪を犯したからとしか考えられず、ヨブに罪を悔い改めよ、自分の不義を自覚し、主の怒りに曝されている自分に気付けと彼に迫ります。友人にとって彼の嘆きは傲慢そのものにしか見えなかったからでしょう。しかし聖書は友人の方が傲慢だと暗示ます。しかしヨブ記は、ヨブの正しさを立証する事、友人達の過ちを断罪する事が目的ではなく、人間誰もが抱えている罪を深く抉り出すことが目的なのです。ここからその御心を知ることが大切です。

 エリファズは自分の神理解をヨブに押し付け、ヨブを断罪しています。悲しいことに、自分をヨブより一段上に置き、神の代弁者のようにヨブに語っているのに気付きません。私達も時に自分は正しいと思い込み、彼のような過ちを犯す時があります。主はヨブ記の最後で彼に怒りを発します。理由は、知り得ない事、理解できない事なのに、それを確かな事のように彼が語ったからです。彼は「この苦難の原因はあなた自身にある。自分の罪の結果を今刈り取っている」とヨブに言います。この言葉は一見真実に見えます。確かにこの苦難は神がヨブに原因があって与えたものです。しかし神が彼に怒りを発したのは、ヨブの痛みを表面的にしか受け止めていないからです。それに、これを下すことにより神が痛みを感じていることに思いが至らないからです。主が下した災いの原因が彼の内にあり、彼の内に更に清められなければならないところがありました。しかしこの苦難は主が、彼を真に神に相応しい者とする為と彼自身が悟る為だったのです。

 ヨブ記はそれを明らかにしていきます。それが私達信仰生活にも通じる大事な事だからです。信仰生活は山あり谷ありです。順境に見える時は楽しく、逆境に思う時は辛く悲しいと感じるのが私達です。しかし私達の人生は主の御手の内にあります。聖書はその確信に立つなら、逆境を順境の如く前向きに平安に生き、真の自分を見出せると私達に教えます。主は私達の罪も愚かさも知っています。私達を清める為に、私達の隠れた罪を暴き出し、変わるよう求める時があります。それは、私達をご自分のものと愛すればこそで、私達をご自身に相応しい者に変え、恵みと平安の世界に生かす為の時なのです。その主の深い愛を知り、全てを主に任せましょう。