メッセージ(大谷孝志師)
人がここで生きる理由
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2018年4月22日
ヨハネ15:9-17 「人がここで生きる理由」 牧師 大谷 孝志

 15章には主イエスがぶどうの木で、私達がその枝と教えました。主は、私達が主に留まっていなければ実を結べない、留まっていれば実を結べると言いますが、留まるか留まらないかの選択を迫っているということは、私達が留まっていることが前提です。主が「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び」と言うように、私達は自分の意志でキリスト者になったのでも、主に留まっているのでもありません。主が私達を実を結ぶ者とする為に選び、主が留まらせたからここにいるのです。主の愛と恵みにより、私達は今ここにいます。

 主は私達にご自分に留まっていることを求めます。しかし主に留まっているとはどういうことでしょうか。礼拝や集会に出席している時、一人で聖書を読み祈る時、主と共にいると実感できます。しかしそれだけでは不十分で、主が求めるように留まっているとは言えないのです。それは受け身の信仰だからです。主は「わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」と言います。留まるとは主と共にいることで、霊的に主に触れ、後ろから主の御衣に触れた女性(ルカ8:46)のように、主のみ力を注ぎ込まれることです。私達が選ばれ、主と共にいるのは、自分の殻に閉じ籠もって、じっと恵みを味わっているだけでは不十分です。主は「あなた方は行って実を結び、その実が残るようになるため」と言います。私達は主に留まる中で、主の名によって父に求めるものを全て、父が与える経験をすることができるからです。主はそのような生き方を私達に求めています。主に留まるとは、静的なく動的で、私達が主の為に働いている状態を言うのです。

 主は「わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です」と言い、主に留まることは主の友になることなのだと言います。それは主が私達を愛したように私達も互いに愛し合うことです。この戒めを守るなら、私達は主の友となれます。主の友となることは、主が友である私達の為に命を捨てたように、自分も友の為に命を捨てることです。命を捨てても私達は死にません。この「捨てる」は、6節のように不要なものを投げ捨てるのとは違い、自分にとって大切なものを主のもとに「置く、預ける」を意味する言葉です。主に留まるなら、私と主が一つに結び付き、私が主の内に生きるので、命を主に委ね、任せられるのです。

 なぜ命を主に委ねることが大切なのでしょうか。人間同士の相対的関係を主との絶対的関係の中で見、相手を主を見るように見られるからです。今年の標語のように、人に対してではなく、主に対するように心から接することができます。心から相手の為に生きられるようになると主は喜びます。それが信仰だからです。私達が相手と主とそのような関係に立つ時、主は私達を奴隷ではなく、友と呼びます。私達は自分だけではなく、人との関わりの中で生きています。主が私達を選び、任命したのは、人々が救われる為に私達の働きが必要だからです。私達が世の人々の所に行くなら実を結べます。一人ではなく、主と共に生きるからです。父なる神が、主と共に生きる私達に私達が求めるものを与えるから、実を結ぶだけでなく、その実が残ります。主の愛に留まりましょう。主の愛に留まり、主と共に働くなら、私達の労苦は決して無駄に終わりません。私達は主の救いの業に仕える為に、主が生きて働いている方と実感する為にここにいます。この教会が教会である為に、私達がキリスト者である為にここにいます。ここにいるから、私達は主の僕として祝福を豊かに戴き、キリスト者として正しく生きられます。