メッセージ(大谷孝志師)
主につながることが大切
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2018年4月29日
ヨハネ15:1-10 「主につながることが大切」 牧師 大谷 孝志

ここで「私」は主イエス。「父」は神。「あなたがた」は主の弟子達。今に置き換えればキリスト者。主は、私達が主を信じ、礼拝を守れば主に付いているのではなく、もっと深いものを主は求める。原文では新改訳のように「留まる」と言う意味の言葉だが、「繋がっている」のほうが分かり易いので、繋がっていると訳す。主は1、2節で「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫です。私の枝で実を結ばないものは全て、父がそれを取り除き、実を結ぶものは全て、もっと多くの実を結ぶように刈り込」むと言う。主の枝であっても実を結ばない枝は、父が取り除く。単に枝であるだけでは駄目で、実を結ぶことが要求されいている。実はこれが、律法遵守が要求される旧約の世界。しかし、今は、主イエスの十字架と復活により、新しい時となっている。3節がその出来事を示している。主の御言葉を聞き、受け入れた人、宣べ伝えられた福音を受け入れた人は、救われ、清い者とされている、と主は言う。3節以降は福音を信じることが要求される新約の世界。主に繋がっているだけでよい。私達の方から主に繋がっていれば、主の方からは振り解かない。主が私達に繋がっていることを求めているから。それだけで、律法遵守が求めていた「人が神に喜ばれ、豊かに実を結ぶ世界」が実現する。

 この新約の世界では、実を結ぶことではなく、人が意識して主に繋がるという人の責任、応答が求められる。主から離れずに繋がっていることが大切になる。私達が主に繋がっていなければ、葡萄の木に繋がっていない枝のように、自分の力だけでは実を結べない。でも、主は人が繋がれるように手助けするとは言わない。繋がる繋がらないは人の責任。神は繋がっていない枝を取り除く。旧約と同じように見えるが、取り除く理由は実を結ばないからではない。主に繋がっていないから。そして取り除かれた枝は投げ捨てられて枯れ、人々がそれを集めて火に投げ込むので燃えてしまう。実を結ばなくても、繋がっていれば取り除かれない。これが新約の世界。神は主に全てを任せた故、主は誰も滅びることが無く、全ての人が悔い改めに進むことを望んで、忍耐しているのです。忍耐しているだけで、繋がり続ける人の努力を求めている。主は「あなたがたが私に繋がっており、私の言葉があなたがたの内にいつもあるなら 」と言う。今年の主題聖句の冒頭は、「キリストのことばが、あなたがたの内に住むようにしなさい」繋がり続ける努力が必要なのは、繋がることによって御言葉が私達の内に住み続けるから。

 主はなぜ、このように繋がり続けていることを求めるのか。それは私達も弱く、主から無意識の内に離れようとしてしまうから。私達も「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」ことは分かっている。分かっていても、自分の思いや判断で生きようとする。御言葉を基準にせず、自分の知恵や知識、時には自分の欲望を判断の基準にしてしまう。その時、私達は自分が神から離れているのに気付かない。神から離れては実を結べない。投げ捨てられ、枯れてしまい、燃やされる。しかし繋がっていればいつか実を結べる。主は忍耐強く待ち続けてくれる。

 人は弱い、離れそうになることもある。しかし主に繋がっていなくては何も出来ないと気付こう。主にしがみつこう。主はそうしなさいと言う。それが私達が滅びずに生きる道だから。主は私達がただ繋がっていることだけを求める。それは、私達が主のもの、主の大切な枝だから。主は私達が主に繋がって実を結び、生き生きと生きる者であれと願っている。その為に主は死に、復活したのだから。