メッセージ(大谷孝志師)

福音の伝え方は様々
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2018年5月13日
使徒17:16-34「福音の伝え方は様々」  大谷孝志牧師

 今日は母の日礼拝ですが、礼拝後に感謝の祈りとプレゼント贈呈をし、礼拝は次週のペンテコステ礼拝の準備の時として守り、御言葉に聞きます。

 パウロはピリピ、テサロニケ、ベレアと宣教を続けた後、ベレアで彼の宣教に反対する人々が起こした騒動に巻き込まれました。彼はシラスとテモテを残し、アテネに入ります。彼はそこで二人が来るのを待っていましたが、町が偶像で一杯なのを見て、心に憤りを覚えたのです。その憤りの対象に会堂のユダヤ人や神を敬う人達が最初に挙げられています。彼は、律法で偶像を造り、拝むのを禁止されていると知る彼らが、町中に偶像が氾濫する中で、平然と礼拝していることに憤りを覚えたのではないかと思います。彼は、これまでユダヤ人から激しい迫害を受け、その町を立ち去りました。しかしここでは、彼と彼らとの論争の内容や結果は書かれていません。同じ神を信じる同胞として、これ迄、偶像を拝む人達に無関心を装ってきた事を認め、彼の問い掛けに反論できなかったのかも知れません。

 聖書は次に、パウロは広場でも毎日論じ合ったと記し、異教徒への宣教に焦点を当てます。ここから異教社会での宣教の難しさを私達は教えられます。彼は人々と論じ合いました。福音を伝え、何とかして何人かでも救いたいと思ったからです。その思いが広場で彼と論議していた哲学者達に届いたのです。彼らの興味を掻き立てる言動が彼にあったからですが、御霊が彼を助けて、福音を伝える場を彼に与えて下さったのです。私達も、福音宣教の為に願い求め、行動を起こすなら、御霊が助け導いてくれます。

 人々はパウロをアレオパゴスに連れて行きました。そこは自由都市アテネを治める主要な行政機関もある評議所でした。「連れて行く」には連行するという意味もありますが、人々の反応は好意的です。ピリピやテサロニケでのように騒動が起き、役人の所に連行されたのではありませんでした。ユダヤ人との諍いが書かれていないからです。パウロが宣べ伝えていた「イエスと復活」とはどんなものか知りたくて、いわば暇つぶしの為に、彼を評議所に連れて行き、評議所の中央に立たせ、話をさせたと思われます。

 アテネ人も滞在中の外国人も、何か新しい事を話したり、聞いたりすることで日を過ごす優雅な日々を送っていたようです。私達の周囲にはそのような人々はいないかも知れません。しかし、何か自分の興味を引くものがあれば見聞きしたいと思うのが人の常です。彼はアテネの人の民衆の知的生活の中心でソクラテスも教えていた広場で、彼らの興味を惹くような話し方をしたのです。アテネでの彼の宣教は決して成功とは言えません。彼は、成否を先に考えずに、福音の為ならと先ず行動に移したと言えます。

 私達の教会の【タラント】の働きも同じような思いで始められています。最初は2人、次は8人、前回は12人と地域の方々が教会に集まってきました。主の為に自分達が良いと思う事を先ずやってみる大切さを教えられます。

 パウロは、真の神とイエスについて知らせる為に、評議所の中央に立ちました。そして先ず、彼らの宗教心の篤さを挙げます。アテネには三千を超える神殿と神像があり、その宗教心の篤さは世界に認められていました。彼は褒めることで話を始めます。善い所を褒められて悪く思う人は少ないでしょう。福音を伝えようと思ったら、相手に心を閉じさせるのでなく、開くようにすることが大切だからです。彼は話の切っ掛けにアテネで見かけた「知られていない神々に」という祭壇を取り上げます。複数形でしたが、彼は単数形に変えて「知られない神に」の祭壇を見たと言いました。自分が信じる神こそが、彼らが知られない神として拝んでいる神だと教える為です。パウロは真の神について人々に分かり易く説明していきます。彼は神をあなたがたでも手探りで求めるなら、見出す可能性があると言います。アテネの人達の知的好奇心をくすぐります。神は天地万物の創造者であっても、人にとってそれ程身近な存在であり、それは人が神に命と息と万物を与えれられた特別な存在であることからも明らかだと言います。

 その事の傍証として、彼らが善く知る異教徒の詩人の言葉を用います。彼は、人は神に象って造られたという意味で、私達は神の子孫と言います。これはギリシア・ローマ神話の世界に生きる聴衆に分かり易い表現でした。「私達は神の中に生き、動き、存在している」も、実は聖書の教えと懸け離れてはいません。彼は押さえるべき所は押さえているのです。真の神は、人格を持つ生き生きと活動する方で、この神こそ彼らが「知られていない神」として拝んでいた真の神と言います。しかし「人は、神を身近に知るが故に、自由に神を感じ、想像し、神の像を作りました。そのような金や銀や石、人の技術や考えで作った物を神を現すものとして崇めてきました。神は、そのような人をご自分が造ったが故に滅ぼさずに放置してきました。しかし今やその過ちを悔い改めさせ、真の神を崇める正しい生き方に立ち返らせる為、一人の方を立てました。その方を死者の中から甦らせ、ご自分が真の神であると明らかにしたのです」と、彼らに分かり易いように福音を語り掛けました。彼が主イエスの名を出さないのは、世に迎合し、主の証人としての務めを曲げたのではありません。彼は世の知恵を用いて真の神を知らせようとしたのです。彼の宣教は失敗に見えます。しかし神は、彼がその地に相応しい方法として選択した宣教にも実りを与えられました。私達も自分にできる方法で福音を人に伝えましょう。福音の為に先ず行動しましょう。主は私達の思いを汲み取り、必ずや実りを与えて下さいます。