メッセージ(大谷孝志師)
祈りの素晴らしさ
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2018年5月13日
マタイ18:18-20 「祈りの素晴らしさ」 牧師 大谷 孝志

 使徒達は主が約束した聖霊降臨の時を、共に祈りつつ待ち続けた。主はエルサレムから離れないで、父の約束を待てと命じました。私達は待てと言われたら、犬のようにじっとただ待ち続けるでしょうか。彼らは心を一つにして祈っていた。不安や恐れがあったからか。落ち着かず、じっとしていられなかったからか。祈らなければ約束が実現しないと思ったからでもない。主が祈りつつ待てと命じた訳ではない。目に見えないけれど、主が共にいるから祈った。ただ祈るだけでなく、賛美の声が挙がり、御言葉の朗誦が流れたかも知れない。彼らは自分の言葉で自分の思いを共にいる主に語り掛け、心の内にあるものをさらけ出して、自分を主に知らせたかったのではないだろうか。パウロはコロサイ3:16で「詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい」と言う。聖書が記された当時の弟子達はそれ程近くに主の臨在を感じていた。当時にしても祈りはある意味で一方通行。使徒1:15-26によると、イスカリオテのユダの死後、使徒職に就く者を選ぶよう主に求めたが、くじを引いて主の意志を確かめるしかなかった。

 弟子達が主の話を直接聞け、自分の目で見、じっと見詰めることができ、自分の手で触れたら、祈らなくても良かったと思います。私達も同じです。主の姿が見えず、声も聞こえないから祈るのではないでしょうか。主は「私は、あなたがたを捨てて孤児にはしません」と言いましたが、人は弱く、満たされないものを感じてしまいます。だから、祈りによって主との交わりを求めるのです。主はマタイ5:6で密室の祈りを命じました。それも大事ですが、一人で祈っていると、こんな思いは自分だけかと考え込んでしまう時もあります。ですから主は「二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられる私の父はそれを叶えて下さいます」と言います。一緒に祈ると一人での祈りでは味わえない恵みを頂けます。相手の心の内を完全ではないが、伺い知ることができます。互いに祈りの課題を教え合う時も持て、祈り祈られる喜びを経験することも経験できます。

使徒達は主の約束を待ちつつ祈りました。最初に復活の主にあった時には疑う弟子達もいました。今は約束が実現するかどうか疑う者はいないし、祈りに疲れる者もなく、熱心に祈り続けました。ペテロに「私はあなたの為に、あなたの信仰が無くならないように祈った」と言った主が共にいたからです。私達もこの事を覚え、共に祈る恵み多き時を少しでも多く持つよう、互いに心掛けましょう。

 使徒達は心を一つにして祈りました。個性も過去も賜物も違うけれど、彼らは十字架と復活の主の前に自分を低く空しくして祈りました。互いに相手が、主がご自身を代価として支払う程、主の目に値高く尊いと認め合ったのです。祈る時、全ての人は平等にされます。誰もが同じレベルに立って祈れるからです。最早隔てるものがなくなり、彼らは心を一つにして主に向かい、熱心に祈れたのです。

 祈りは素晴らしい。主が祈りに答え、実現し、実りを与えるからではありません。主は時として求めに反する結果を与えます。しかし、自分を低くし、主の目には値高い者である自分を知り、自分の思いではなく、御心がなるようにと祈る者は、どんな結果をも感謝して受け取れます。祈りは私達を御心に相応しく生きられるように変える為に主が与える手段なのです。それだけでなく、一人で祈る時、共に祈る時、主は私達に変化や成長をもたらしてくれます。祈りは私達に与えられている恵みの時です。祈りの素晴らしさを一人で、皆で味わいましょう。