メッセージ(大谷孝志師)

自分の義を押し付ける
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2018年5月27日
ヨブ5:1-7「自分の義を押し付ける」  大谷孝志牧師

 ヨブも友人のエリファズも同じ神を信じています。ヨブは3章で理由の分からない災いに遭い、苦しみ嘆きます。彼は自分の生まれた日を呪いますが、神に理由を示せと答えを迫ってはいません。4,23節に「神」が出てきますが、神に投げ掛けた言葉ではありません。彼は死んだ方がましだと思っています。死ねば楽になると思っても、自殺は全く考えていません。命は神のものと知るからです。ですから、生きながら、恐怖に怯え、苦悩し続ける自分を、生きて見詰め続け、苦悩し続けなければならないのです。

 ヨブは神を呪って神に滅ぼされる道を選びません。故意に罪を犯せないからです。1:1節のように「神を恐れ、悪から遠ざかっていました」彼は1章の災いを下された時、「上着を引き裂き、頭を剃り、地にひれ伏して礼拝」しました。彼はこの災いを主が与えたと分かっていたからです。災いを下したその主に絶対的に服従することをその行動で表したのです。2章の災いにおいては、妻に「神を呪って死になさい」と言われると「私達は幸いを神から受けるのだから災いをも受けるべきではないか」と言います。彼には私達がこの世で生きていて度々感じてしまう「理不尽」という思いは無いのです。彼は自分の義を主張せず、自分に起きている全てを神が与えたものとして受け入れています。そのヨブを、神は42章で褒めています。

 私達は教会生活をしていると、他のキリスト者の言葉にハッとすること、意味不明だと考え込んだり、落ち込んだりすることがあります。同じ神を、主イエスを信じているのに、どうしてあんな事が言えるのかと思うからです。そういう問題が生じる原因の一つは、人の真意は他の人には正確に理解できないからです。それを言った人と聞いた人では、意味が違うことが多いからです。エリファズもヨブの言葉の真意を聞き取れなかったのです。彼は神様はこういう方という信念を持っていました。ヨブも自分は正しいと思っているし、主もそれを認めています。しかし、エリファズは明らかにヨブは間違っていると考えています。それは彼が自分は正しいと考えているからです。教会の中でも、互いに自分は正しいと思っている者同士が対立してしまうことがあります。結果的に言えば、それは残念なことではなく、主が必要とされたことなのですが。ヘブル12:11に「全ての訓練はその時は喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるのですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせ」るとあります。しかしその御言葉は知っていても、現実に経験すると辛いです。ヨブと友人達は互いに自分の正しさを主張し、対立しましたが、決裂に終わりませんでした。自分達が神について、真摯に向き合っていたからです。

 それにしても、サタンが彼に災いを下すことを許した神は勝手で、理不尽だと、私は思います。しかしその方が私達が信じ、礼拝する神、私達の神だとヨブ記は教えているのです。友人エリファズは、神は潔白な者、真っ直ぐな者を滅ぼさず、絶やさないと言います。彼のこの信仰を否定する者はいないでしょう。しかし、ヨブは御前に正しい者として生きてきたのです。それなのに激しい災いを下され、嘆き悲しんでいます。彼のヨブへの答えも間違っていません。彼は、表面上はヨブを裁いていません。しかし、彼は5:1で、ヨブがどの聖者に答えを求めても、自分の罪を認めなければ、ヨブには答える者はいない、と言います。彼は断定しています。自分の義をヨブに押し付けていますが、それに気が付かないのです。神は罪を犯す者を決して赦さないのだから、ヨブが災いに遭うのはヨブの罪の結果なのだと彼は主張し続けます。それだけでなく、災いの中で発するヨブの呻きは、ヨブ自身の内にある愚かさ、浅はかさから生じる苛立ちや妬みによるものと決め付けます。友人はヨブを愛し、彼の為に諭そうとはしています。でも、彼に寄り添うのでなく、彼を罪人と決め付け、彼に対立しています。自分が神の側に立って彼を見ていることに自信を持っています。確かに、神を正しく知らず、自分の知恵により欲望のままに生きる人々の現実は友人が言う通りです。罪人は神から死を与えられ、滅びます。また罪人は、他人のものも自分のものも、全て自分のものと考えます。

 人は人生を楽しく平穏に過ごしたいのです。ですから自分を周囲の人より無意識に上に置こうとします。そこに人が人に責められ、人を責める関係が生じます。それはとても疲れます。人の心と思いを他人は知ることができないので、思い込みと誤解が生じ、人間関係が崩れていくからです。

 友人は、不幸は塵の中から、労苦は土の中から出てこないと言います。確かにそうです。不幸や労苦は偶然生じるものではなく、人の罪の結果生じてくるものだからです。言うなら、自業自得です。その現実を捉え、友人は、彼もまた人なのだ、労苦をもたらす為に生まれたと迄言い切ります。

 彼は自分の信仰的確信に基づいて、何が正しいかをヨブに明らかにしていると思っています。しかし正にそれによって、彼自身がヨブに苦痛を与えているのに気付きません。私達も自分の義を人に押し付けないように、一歩下がって、自分と相手を見る事が必要だとここを通して教えられます。

 ヨブが正しい人として、神を恐れて生きてきたのに、友人はヨブの災いは自分の罪が原因であることを認めよと彼に迫り続けます。彼の友のように、人の言動の善し悪しを自分の信仰判断で決めたりせず、自分を主の側に置くのでなく、相手を主の側において相手の言動も相手の信仰から出ていると考えましょう。教会が主の祝福に満ちた群れに成長していきます。