メッセージ(大谷孝志師)
私達に何が一番必要か
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2018年5月27日
使徒3:1-10 「私達に何が一番必要か」 牧師 大谷 孝志

 今日の箇所の奇跡が起きたのは、福音宣教を始めたペテロ達が午後三時の祈りの為に神殿に上った時です。奇跡が起きたのは、彼らが主を礼拝しようとしていた時、心が主に向かっている時に起きたことには注目する必要があります。しかしそのようにすれば奇跡は必ず起きる訳ではありません。主が必要とする時に起きます。私達もこの教会に世の人々の救いという奇跡が起きることを願い求めています。その為には、私達が主にしっかりと心を向けて願い求めることが必要ですが、その他に必要なことがあると、この奇跡を通して主は私達に教えています。

 彼らが神殿に上った時、生まれつき足の不自由な人が運ばれてきました。彼はペテロ達を見て施しを求めました。その為に彼はここに毎日運ばれてきたのです。彼は二人を見ました。ここには、この見る(ホラオー)の他に、見つめて(アテニゾー)、見なさい(ブレポー)、目を注いだ(エペコー)と見るを表す四つの動詞が使われています。ペテロ達は施しを求めたその人を見つめました。そして私達を見なさいと言います。すると彼は何かもらえると期待して、二人に目を注ぎました。

 聖書は私達が主をどのような思いで見ているかを考えさせています。主をただ思っているだけでしょうか。或いは主の呼び掛けを感じて、それに応えるように、主に心を向けているでしょうか。主に何かを与えられることを期待して、主に心がしっかり結びつけしているでしょうか。私達の主への姿勢を顧みましょう。

 さて、二人は自分達に目を注いでいる彼を見て、彼に何が必要か見抜きました。世の人々は、興味津々とまではいかなくても教会の私達のことを結構見ています。私達は世の人のことをよく見ているでしょうか。教会の看板をじっと見ている人やチラシなどを見て連絡したり、質問してくる人がこれ迄何人もいました。私自身、そのような時、一生懸命に対応したつもりでも、相手の姿勢や反応を勝手に判断して、中途半端な対応したことはなかったかと反省させられました。どんな相手であっても、それをチャンスとして捉え、相手が何を一番必要としているかを見抜けるよう、御霊の助けを求めつつ接していかなければならないと教えられます。私達人間は御霊の助け無しに、人の心の中を知ることができないからです。

 主ご自身が世の人々一人ひとりをしっかりと見つめているのです。そして私達をも見つめています。私達はどうしたらよいのでしょう。そうです。自分達が救われて喜んでいるだけでは不十分と感じてしまう時はないでしょうか。家族は勿論、近所の人や友人知人に救われて欲しい、私達と同じような生き方をして欲しいと思ったことは無いでしょうか。この思いが必要なのです。世の人々の中には、今の自分の状況から抜け出したい、事態が好転し、求める状態になることを願っている人もいます。私達には人の人生を変える力がないことは分かっています。

 使徒達もあなたの求めるものは与えられないとはっきり言いました。でも、彼らは相手の要求には応えられなくても、自分達が信じる主はこの人生を変える方と信じていました。相手に一番必要なもの、その人自身が変わる機会、自分が自分の人生を喜んで生きる機会を提供出来たのです。私達も、その救いの御業のお手伝いができます。私達には変えられなくても、主にはできるからです。大切なのは、私達自身がその人も主に愛され、主が救いの手を差し伸べていると信じることです。主がここに教会を立て、私達を集めているのは世の人を一人でも多く救う為と信じましょう。私達に一番必要なのはこれを私達が信じることなのです。