メッセージ(大谷孝志師)

御言葉だから従う
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2018年6月3日
マルコ4:35-41 「御言葉だから従う」  大谷孝志牧師

 主イエスは、その日の夕方になって、弟子達に「向こう岸に渡ろう」と言いました。「その日」は、主が弟子達に譬え話で「神の国はこのようなものです」と言い、御言葉を宣べ伝えることによってどんな事が起きるかを教えた日です。ガリラヤ湖は北、東、南西に高い山がありました。湖面は地中海より200㍍以上低く、陸と水面の温度差が生じる夕刻以後に、突然危険な山颪が生じる事がありました。主はその危険性は知っていた筈ですが、敢えて彼らに漕ぎ出させました。主は全てをご存じです。私達が直面する出来事には全て主の内に目的と理由があります。彼らの中には漁師もいて、主以上に危険性を知っていた筈です。しかし彼らは主の御言葉だから従い、主を舟に乗せたまま出掛けました。主の命令、御言葉だから従ったのです。

 主は何の為にこの時間の湖に舟を出させてのでしょうか。危険を体験することを通して、彼らに福音を伝えるこの世の現実を知らせる為でした。聖書では海、湖は多くの場合この世を暗示します。また、対岸はゲラサ人の地でした。そこには汚れた霊に憑かれて苦しむ人がいました。彼に憑いていた汚れた霊の数は数千でした。その地の人々は厄介者だったその人が正気に返ったのを知ると、それを喜ばずにその地方からイエスに出て行くよう懇願します。自分達の生活をこれ以上乱されるのを恐れたからです。 主は弟子達にそこに行こうと言い、彼らは主を舟に乗せたまま対岸に向かいました。彼らは湖に漕ぎ出し、それにより汚れた霊に憑かれた人を救う方がいることを明らかにしました。そして予想通り、激しい突風が起こって波が舟の中に入り、舟は水で一杯になりました。激しい突風は自然現象です。条件が揃えば必ず起きるものでもありません。彼らは起きない事に賭けて、舟を出したのでしょうか。主が共にいるから危険は無い、主の内にそうする理由と目的があるのだから安全だと思い、舟を出したのでしょうか。ただ御言葉だから従ったのです。しかし彼らを待っていたのは死を覚悟しなければならない状況でした。主は時として私達の想像を超える事をします。主は弟子達にこれから彼らが経験する事を示し、その中で自分達がどんな行動を取ってしまうか、自分達は何をすべきか、そして、主は自分達に何をしてくれる方かを知らせる為に、彼らをこの状況に置いたのです。彼らは船尾で枕をして眠っている主を起こして、「先生。私達が死んでも構わないのですか」と言いました。彼らは激しく動揺しています。主が同じ舟の中にいます。主がいれば安全です。なぜ動揺したのでしょう。主が眠っているからです。彼らは「私達が」と言って主を起こします。聖書は、彼らにとって主が眠っていることに重要な意味を持たせています。

 弟子達が溺れ死ぬのなら、主も死にます。しかし彼らは自分達の安全だけを求めて、主を起こしました。主に何とかして貰いたいと思っからです。確かに、主が起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言うと、風は止み、すっかり凪になりました。彼らは主がそうしてくれると信じて、起こしたのでしょうか。そうだとすれば、非常に恐れて、互いに「一体この方はどなたなのだろうか」と言わなかったでしょう。凪になって喜んだ筈です。私達も主が共にいると信じています。そして危機に陥った時、主に助けを求めます。そこで、何が御心かを求める余裕など無いのが私達ではないでしょうか。自分をその危機から抜け出させるよう求めるのが精一杯だからです。それより問題なのは、主がこの危機から救い出す力を持つ方と心から信じているかどうかです。主は24節で「自分が計る測りで自分にも測り与えられる」と言います。主をここ迄はできない小さな方と計ったら、その測りに応じたものしか主に与えられません。ウィリアム・ケアリーというイギリスバプテスト派の宣教師は、自分の店の自分が座る目の前に「大きな夢を持て!大きな祈りを捧げよ!大きく期待せよ!」と書いた紙を貼り、毎朝それを見上げて一日を始めたそうです。彼のように主の力を信じ、主に期待することは、私達の信仰生活にとっても大切な事です。

 聖書は私達に、主が眠っていると思っていないか、と問い掛けています。私達の信仰生活の大きな問題点は、主の助けに信頼しきっていないことなのです。主は船尾で眠っていました。神の国にいると安心しきっていたからです。しかし弟子達は、不信仰の不安の故に眠るどころではなかったのです。私達も、不安と恐れに苛まれ、「主よ、私達がどうなっても構わないのですか」という祈りを捧げることは無いでしょうか。この祈りは不信仰の信仰から出て来たのです。主が私達に無関心だと思ったり、私達は神の国に生きていると思えない不信仰から、疑惑から生じて来る祈りなのです。

 しかし主は素晴らしい方です。起き上がって風と波を鎮めました。弟子達の不信仰による動揺から発した信仰の叫びに、憐れみ深く応えたのです。私達は揺るがぬ信仰の持ち主者だから、神の国にいるのではなく、神の国にいるから、揺れ動く私達の信仰は支えられているのです。私達は信じ切れない弱い者です。主はそのような私達を暖かく包み込みます。感謝です。

 主は弟子達に「どうして怖がるのですか。まだ信仰が無いのですか」と言いました。無信仰とは厳しい叱責の言葉ですが、主は私を信じ、私に従えと命じています。悔い改めて神の国に生きよと命じるのです。この命令、叱責に常に心を開くことが、この世の海を前進する教会が、対岸にいる世の人々を救いに導ける力強い教会であり続ける為の大前提です。主の御言葉に心を開き、一歩を踏み出し、御言葉だからと従う私達になりましょう。