メッセージ(大谷孝志師)
私のものは誰のもの
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2018年6月3日
使徒4:27-35 「私のものは誰のもの」 牧師 大谷 孝志

 今日の箇所は、先週の生まれつき足の不自由な人の癒しの奇跡後の出来事です。ペテロがこの奇跡を通して福音を伝えると祭司達、宮の守衛長、サドカイ派の人々は彼らを捕らえ、牢に入れられました。翌日、最高法院に引き出された二人は聖霊に満たされて堂々と福音を宣べ伝えます。最高法院は二人に宣教を禁じますが、二人は「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか判断して下さい。私たちは自分達が見たことや聞いたことを話さない訳にはいきません」と答えました。私達も御言葉に従うべきか、世の人の要求に従うべきかの選択を迫られた時、この二人のように決断すべきと教えられます。

 釈放され戻ってきた二人を迎えた人々は、主が預言していた事を成就した主に感謝しています。主が前もって定めていた事を計画通りに、御手によって行ったからです。私達の教会に起きている事も、主が前もって定めていた事を御手によって行った事と信じましょう。信じるなら、私達も自分達に与えられている恵みがいかに大きなものであるかを知り、主に讃美と祈りを捧げることができます。

 さて、その人々は誰一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、全てを共有していました。人は自分の領域を確保していないと不安になります。自分の力で生きなければと思うからです。しかし主を信じると、自分が砕かれます。自分の殻が無くなり、自分のものを自分のものとする根拠を失うからです。ですから、全てを共有し、必要に応じて分配出来ました。これは誕生後の理想状態にある教会の姿を示しています。救われて、神の知恵と力に満たされる人間にどういう生活ができるかを、主が当時の人々を用いて全ての主を信じる者に示したのです。当時の人々も人間です。生きる為には衣食住が必要です。ですから、主を信じる前はそれらのものが今はあっても明日はないかも知れない不安を拭い去れなかったでしょう。人が自分より良いものを持てば欲しくなり、得られなければ、自分を、相手を責めたでしょう。互いに自分さえ良ければと考えていたその人々が、聖霊に満たされることによって変えられたのです。主の力がはっきりと示されたからです。地所や家を所有している者は皆、それを売り、その代金を持って来て、使徒達の足下に置き、その金が必要に応じて各々に分け与えられました。

 主を信じ、主の支配の中に自分を投げ出すなら、それができると主は教えます。今私達を支配しているのは偶然でも人の欲望でもありません。主ご自身なのです。私達は、折角自由を与えられ、主の愛を知らされても、罪と悪に支配されているのが現実です。しかしその私達をご自分のものにしようと主は働き掛けているのです。自分達は弱くても、主を信じるなら、私達は強くなれる、強く生きられる、と主は私達に語り掛けています。主の十字架と復活により、私達は真理を知らされています。全ては主のものと信じましょう。そうすれば、この世の全てのものから真の意味で自由になれます。私のものを私のものと考えるから、将来や相手に不安や恐れを持ってしまいます。それでは寂しい人生になってしまいます。悲しいです。主は私達をそのような人生から抜け出させ、喜びと感謝に満ちた人生を歩ませる為に、十字架に死んで復活したのです。その主を見上げましょう。目には見えなくても、主はここにいます。生き方を変えてみましょう。今まで見えなかったのものが見えてきます。全ては他者に与えることができる自分ものだと分かります。主が開いたこの素晴らしい道を、新しい気持ちで歩み出しましょう。