メッセージ(大谷孝志師)

全ての人の救いの為に
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2018年6月17日
マルコ5:1-20 「全ての人の救いの為に」  大谷孝志牧師

 主は、ゲラサ人の地の悪霊に憑かれた人を救う為に、その地に来ました。その人が救いを必要としていたからです。主は全てをご存じなのです。先先週学んだように、その地に向かう前に主は敢えて、危険な夕方に舟を漕ぎ出させました。すると、激しい突風が起こって波が舟の中にまで入り、舟が沈みそうになりました。眠っていた主を弟子達が起こすと、主は起き上がって風と湖を叱りつけました。すると凪になったのです。主は、悪の力に支配されている世の人々を救う為に働く弟子達に、彼らが体験する事を通して大切な事を教えたのです。主は「悪の力との闘いには危険が伴い、時に死の危険すらある。自分達にどうにもならず、主も助けてくれないと思う時があるかも知れない。そうだとしても、主は全てを知り、助け、平安を与え、安全に目的地に向かわせる。だから主イエスを信じ抜けばよい」と教えたのです。主は伝道に向かう彼らに、事前体験学習をさせたのです。

 さて、イエスが舟から上がると、遠くからイエスを見付けた悪霊に憑かれた人が、墓場から出て来てイエスを拝しました。人々は鎖で繋いで押さえ付けられませんでした。人は人を支配出来ないが、主はどのような人でも支配出来る方だからです。悪霊に憑かれた人はそれを察知したのです。彼は主に名前を尋ねられ、「私の名は(4000から6000人の連隊)「レギオン」と答えます。その後で「私達は大勢」と答えます。彼の内に夥しい数の悪霊がいるからです。彼は、「人」でありながら、自分で自分を制御出来ない人だったのです。彼は人に支配されない点では自由でした。しかし彼の生活に喜びと感謝は全くありません。彼は悪霊に制御されているからです。だから主に制御されることを恐れます。この人は、世の人々の現実を象徴的に暗示しています。世の人々は自分は自由だと思っています。相手に干渉されても、最終的には自分の事は自由に自分で決められると思っています。でも、それが本当に正しいかどうかの確信は持てません。一時的喜びや感謝は持てますが、真の平安は得られません。不安や恐れから自由になれないのです。「私が道であり、真理であり、命である」と言う主イエスを知らないからです。だから主は彼を、そして世の人々を救う為に来たのです。

 彼はイエスを「いと高き神の子」と呼びます。弟子達は風や湖を従わせた主に驚愕はしました。しかし、彼のようには主を呼べません。この当時だけでなく、今も悪霊の働きがあります。悪霊は主に「私を苦しめないで」と言いました。悪霊は人を支配し、自由に操ることにより世に存在します。その力を奪われてしまうと、自分が無力になるだけでなく存在理由がなくなるからです。悪霊は、主がその為に来たのを知るから主を恐れたのです。

 悪霊は主に「汚れた霊よ、この人から出て行け」と言われ、自分の存在が危うくなるのを知り、主に苦しめないよう懇願しました。しかし、主はこの人をそのような悪霊達の支配から解放する為に世に来ているのです。

 懇願が無意味と知った悪霊は「自分達をこの地方から追い出さないで」、「私達が豚の中に入れるよう、豚の中に送って」と懇願します。全ては主の意志次第と知るからです。聖書は悪霊と主の関係を通して、私達に霊的事実の存在を教えます。私達は見えない力に支配されています。それは主ですか悪霊ですか。悪霊から人を救う為にゲラサ人の地に来たように、主は全ての人を悪霊から解放して救い、真の平安を与える為に世に来ています。

 悪霊達はイエスに「豚に入れるように、豚の中に送って」と懇願します。彼らは寄生先が必要だったのと、主に許されなければ豚の中にも入れないからです。悪霊は完全に主の支配下にあります。しかしその悪霊に憑かれた人を人々はどうにもできないでいたのです。人々が平和な生活を取り戻すには主の力が必要でした。主に許され、豚に入った悪霊により二千頭の豚が全滅すると、豚飼い達は逃げ出し、町や里でこの事を伝え、人々は何が起きたかを見ようとしてイエスの元に来ました。彼らは豚の溺死と悪霊に憑かれた人が正気に返っているのを見て、恐ろしくなりました。ゲラサ人達は癒された彼のことを喜ぶより、世の常識を超えたイエスの力を恐れました。人は人知を超える力を体験すると、恐怖が先に立ってしまいます。主は真の神の存在と力を知らぬ人々を救う為に来て、先ず悪霊に憑かれた人を救ったのです。しかし人々は、現実の神の力に恐ろしさを感じてしまい、主に出て行くよう懇願します。癒された人は自分も人々に排斥されると思い、この地を去ろうとした主に同行を懇願しますが、主は許しません。

 向島に教会が立てられ、信徒が集まり、礼拝をしています。豚が二千頭も溺れ死ぬようなことが起きてはいません。治癒不可能とされた人が教会に来て癒されたこともないでしょう。しかし私達は集まり礼拝しています。一人一人は大きな主の恵みを経験している筈だからです。主は彼に命じたように私達にも「あなたの家、あなたの家族の所に帰りなさい。そして、主があなたにどんなに大きな事をして下さったか、どんなに憐れんで下さったかを知らせなさい」と語り掛けています。主は、私達に真理を教え、真の自由を与えて下さり、主と共に生きる素晴らしさを味わわせています。

 彼が御業をその地方で言い広めたように、私達も経験した主の恵みを人々に知らせましょう。主は悪の力に苦しむこの地の人々を救う為に、まず私達に御心を行って下さっているのです。福音を伝えようとする私達に、荒海が待つかも知れません。しかし見えないけれど主が共にいるのです。主を心から信頼し、私達が自分にできる事をすれば良いと教えられます。