メッセージ(大谷孝志師)
先行する主の愛
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2018年6月17日
ローマ 10:9-18 「先行する主の愛」 牧師 大谷 孝志

 マタイ15:22-28に、主イエスに向かってカナンの女性が「私を憐れんで下さい。娘が悪霊に憑かれて酷く苦しんでいます。」と叫び続けたとあります。しかし主は何も答えず、弟子達に「この女を追い出して下さい」と言われて「私はイスラエルの家の失われた羊にしか遣わされていない」と冷たく答えました。しかし、この後、この女性とイエスとの対話によって、この女性と悪霊に憑かれた娘もまた、イスラエルの失われた羊であることが明らかになります。主イエスは、日本に生きる私達にも主なのです。パウロも「ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです」と9:12で言います。キリスト教は全ての人の為になる宗教です。全ての人々に、人生の意味、この世界に生きるその人自身を含めた全てのものの真の価値を明らかに知らせ、それらの一つ一つには何ものにも換えられない価値があることを知らせる教えです。主は私達一人一人を愛し、大切に見守っています。生きていると、様々な思いも掛けない出来事が起きます。しかしパウロは、主イエスに信頼する者は、だれも失望させられることはないと教えます。「主の御名を呼び求める者はみな救われる」からです。皆であって、そこには人種、民族、国家による違いはありません。これが私達の教会が世の人々に伝え続けている真理であり、良い知らせです。ですから16節では、これを福音と呼びます。

 この福音を伝える為にパウロが遣わされ、弟子達がそして私達も遣わされています。しかし私達は主の十字架と復活の目撃者ではありません。とは言え、ただ聖書を読んで事実だと信じたのではありません。弟子達も女性達から主が復活したと聞かされても信じられず、疑いました。しかし主は、その弟子達に近付き、信じる者になれと語り掛け、福音宣教に遣わしました。主は弟子達に、会いに来るよう伝言させました。ユダヤ人達を恐れて家に閉じこもった彼らに、会いに来ました。経過は正反対ですが、その両方とも、彼らが主の前にいたことが重要です。主は弟子達を愛し、包み込み、彼らを癒し、宣教に向かう力と勇気を与えたのです。私達もこの世での一週の旅路の後、主を礼拝する為に会堂に来ます。他にしなければならない事があったが、礼拝を第一にしなければと思って来る人、この世での生活に疲れ、心の癒しを求めて来る人、主の日だからと習慣のような思いで来る人もいるかも知れませんが、理由は様々でも、自分の意志で会堂に来て、主の御前にいるのです。これが私達にとって非常に大事なことなのです。

 次に大事なのは、私達が必要だから主を礼拝しているということです。主は万能であっても、私達は人間で、ロボットではなく、自由意志を与えられています。主は弟子達を強制的に弟子にしたのではありません。彼らが自分の意志で、主に従い、全てを任せ、弟子として生きるよう働き掛けるだけでした。主は私達にも働き掛け、主を礼拝するよう、全ての人に福音を伝えるよう、同じように働き掛けています。そしてそれは私達自身の為です。私達はこの世の生活の中で様々な疲れ、痛み、空しさを感じます。だから主は、私達に働き掛け、私達がそれに応える時、礼拝は勿論、福音宣教においても癒されるのです。主に頼るしかない自分を知り、その状況の中で生きてこそ、私達は癒され、祝されるからです。私達が世で生き生きと生きる為に、主は私を信頼し、従えと働き掛けています。主が私達をそして世の人々を愛しているからです。先行する主の愛に感謝しましょう。