メッセージ(大谷孝志師)

ヨブの如く主に従う
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2018年6月24日
ヨブ 7:11-21 「ヨブの如く主に従う」  大谷孝志牧師

 ヨブは7章の前半で人生は苦の連続と言います。世の中には人生を楽しんでいる人もいます。しかし、その人もこれ迄常に人生を楽しんできた訳ではないと思うし、この先、その保証は無いと分かっていると思います。私達の人生も程度の差こそあれ、苦労しながらの人生と言えるでしょう。

 ヨブ記を読むと、人生とは何なのだろうと考えさせられます。彼は何不自由のない暮らしをし、豊かな財産と家族に囲まれ、人生を謳歌していました。しかしそれがある時、全て奪われ喪失してしまいます。更に、全身が悪性の腫物で覆われ、苦痛に喘いでいます。この彼の苦悩を記すヨブ記は単なる叙事詩ではありません。私達の人生観への神からの問い掛けです。

 ヨブは6、7章でエリファズの自分への非難に答えています。友は、自分の信仰を基準にヨブを責めました。「あなたが過ちを犯したから、この災いが下されたので、、あなたが悔い改めるなら、神は幸いを与える筈です」とヨブに迫ったのです。これに対し、ヨブは先ず、友は見当違いをしている、私に顔を向け、現実の私を見つめて欲しいと訴えます。そして7章で「あなた」と呼び掛けて、神に自分の現実を見て欲しいと訴え掛けています。

 彼は自分の死を望んでも叶わないので、その中で苦しみ藻掻くしかありません。彼は人生が自分のものあっても、自分でどうにもならないのです。実は、私達の人生も同じです。ああしたい、こうしたいと思うことがありますが、実現する時もあれば駄目な時もあります。実現の為に用意周到に準備し、実行に移しても失敗に終わる時もあります。そんな事が続くと、自分の不甲斐なさ、愚かさに苛立ち生きているのも嫌になってしまいます。

 ヨブは空しさの中で喘いでいます。彼の言葉には、死にたいとの思いより、生きたいとの思いの方を強く感じます。彼は神を信じています。信仰があります。ですから、彼はこの苦しみから逃れられないるのです。私達も同じ思いに囚われることがあります。今自分が生きている意味がどうしても分からない時がそうです。しかし、信仰は捨てられません。神が私を愛していて、神に不可能はないのなら、なぜこのような状況に私を放置しておくのかと困惑します。しかし、ヨブは毅然として御前に生きています。そうするしかないと知っているからです。命は主のものと知るからです。とは言え、日々空しさを感じながら生きるしかなく、いつ迄も生きたくないと思いながらも生きるのは本当に辛いと思います。しかしヨブは、生きている限り自分からは死ねないのです。このような人生であっても、自分が生きる意味が主の内にあると知るからです。人には理由も目的も分からなくても全ては神の御心なのです。その中でヨブは葛藤を続けていきます。

 ヨブは「人は何ものなのでしょう。あなたがこれを尊び、これを心に留められるとは」と言います。詩8と144にもこれと同じような言葉があります。詩編は、弱く儚い者である人を顧みて創造の冠とし、栄誉を与える神の恵みを讃美しますが、ここでのヨブの言葉は呻きなのです。今の彼はどう見ても神に尊ばれていないし、神に心を留められているとも言えません。でも、神を信じ、神に不可能はないと知る彼は、激しい災いに苦しみながらも、神に必死に語り掛けます。神としっかり向き合い、全てを委ねています。しかし神が、朝毎に私を検閲し、金属の純度を調べるように私に関わるのは、私を尊び、心に留めているからなのか、訳が分かりません。もう沢山です。私から目を逸らしてくれ、放っておいてくれ、と叫ぶのです。

 彼は自分が御前に弱く儚い人間であると知っています。自分が完全に正しい人間だとは考えていません。「私が罪ある者だとしても」「私の背き」「私の咎」と言いますし、9:1でヨブがビルダデに答えているように、人が神の前に正しくあり得ないことは知っています。しかし神が災いを下した理由が分かりません。「私が罪ある者だとしても、神に何ができるでしょうか。私が気付かずに神に背いたり、咎を負うような事をしたとしても、こんな事をするなら私は御前から消え去ります」と言います。彼はこの世から自分を消したいと思う程、悲惨な状況に放置され、暗黒の中で呻き続けます。

 私達は彼の状況に置かれたらどうするでしょうか。私達は主の十字架によって罪赦され、断絶していた神と交わりを持てるようになったので、主を礼拝しています。しかし経済的に、家族に、将来にある程度安心出来る状態にあるから、礼拝や集会に出ているのではないでしょうか。ヨブのように、それらを全て奪われたら、礼拝で讃美し、証しできるでしょうか。

 ヨブ記は旧約時代、主の十字架と復活以前の神と人との関係の中で書かれています。しかし、旧約と新約と時代は変わっても同じ神です。同じ神だからこそ、神は造られた人を愛し、御子イエスを世に遣わし、全ての人の救いの為に道を開いたのです。今誰でも、主イエスを信じるなら、本人もその家族も救われます。しかし、主を信じるとはどうすること、救われるとはどうなることなのでしょう。旧約から新約に時代が変わっても、神が人に求めるものは変わりません。神は「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛すること、また、隣人を自分自身のように愛すること」を、神は私達に愛し尽くすことを求めます。主は私に従いたければ「自分を捨て、自分の十字架を負って従いなさい」と言います。ヨブは全てを失っても、神を神として仰ぎ、神のみ手の内にいる自分として生きます。神が私達の必要を満たすからでなく、その有無に拘わらず、唯一心に主を主として仰ぎ、主のものである自分を自覚して、ヨブの如く生きる私達になりましょう。