メッセージ(大谷孝志師)
生き生きと人生を歩む
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2018年6月24日
ピリピ 3:10-21 「生き生きと人生を歩む」 牧師 大谷 孝志

 使徒の働きやパウロの手紙を読むと、彼が生き生きと生きているのを感じます。勿論、聖霊の守りと導きがあったからですが、彼が、何とかしてそれに達したいという切実な目標に向かっていたからだと思います。大きくても小さくても目標に向かう人は生き生きしていられます。燃え尽き症候群という言葉を聞いたことがあると思います。懸命に目標に向かっていた人が、目標に到達した途端、生きる意味を見失い、人間性が大きく変わってしまうことです。彼が常に生き生きとしていたとすれば、逆に、目標に到達出来なかったからということにもなります。

 私達も、こうなったらよい、ああなったらよいという目標を持っています。しかしその目標にいつまで経っても到達しないと、疲れてしまいます。パウロの目標は、常に生き生きと生き続け、その目標を目指して、死ぬ迄ひたすら走り続けられる目標でした。それは、キリスト者として神に認められることです。ローマ12章にあるように「心を新たにすることで、自分を変えていただき、神の御心は何か、すなわち、何が良いことで神に喜ばれ、、完全であるかを見分ける」者になることなのです。しかし彼にしても、自分が心を新たにしても、神に自分を変えて頂ける者になっているかどうかは自分では分かりません。でもそうなれたら素晴らしいと思い、それを目標にすることが大切なのです。私達も神に喜ばれる者になりたいと思わないでしょうか。所詮無理だと思わないで下さい。彼も自分には捕らえる力があるとは思っていません。でも捕らえようと追求しています。私達もそうです。完全になれないとしても、目標を追求することは出来るのです。

 パウロは、完全な者になることを目指して、追求出来たのはどうしてでしょう。それは「それを得るようにとキリスト・イエスが私(彼)を捕らえて下さった」からです。私達も、目標を掲げ、それに向かっていても、力不足を感じたりすると、低い目標に換えたり、目標を掲げることを諦めたりしてしまいます。しかし彼は目標を目指して前進し続けます。自分がその目標に到達する為に、主が十字架に掛かって死に、復活して、自分が目標に到達出来るように、しっかりと捕らえ、支え、導いていると知るからです。彼の信仰生活、福音宣教の生活は、苦難に満ちていました。でも、それに負けず、今自分にできることを精一杯続けました。

 私達も、疲れてきたり、壁を感じると、もうこの辺で良いと考えることがあります。ここまで頑張ったのだから、少し休もうと思ってしまいます。パウロにとって、生きている限り、それで十分だと思える時はありませんでした。「自分がすでに捕らえたなどと考えません。彼は唯一つの事、即ち、後ろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばすように歩み続けました。彼にそのような生き方が出来たのは、彼がキリスト・イエスにあって神が上に召して下さるという賞を戴くという目標を目指して走っていたからです。彼はTコリ9章で「あなたがたも賞を得られるように走りなさい。競技をする人は、…朽ちる冠を得るためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を得るためにそうするのです。ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません。むしろ、私は自分の体を打ち叩いて服従させます」と言います。厳しい言葉です。パウロも自分の弱さを知っていたのです。私達も神に喜ばれる者とされるその賞を目指して、主に助けられてこの世で生き生きと歩みましょう。それによって、この世での生活を終えた後、私達は神と共に永遠に生きる者となれるからです。