メッセージ(大谷孝志師)

恐れず、信じる
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2018年7月1日
マルコ5:22-43 「恐れず、信じる」  大谷孝志牧師

 主イエスの一行がゲラサ人の地から対岸のガリラヤに戻ると、会堂司のヤイロが来て、「小さい娘が死にかかっているので、来て助けて」と懇願しました。主が自分と一緒に行くことになり、ヤイロは喜んで家に向かいました。しかしその途中、12年間病気に苦しんでいた女性が主に癒されるという素晴らしい出来事が起きました。主はその人に「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心してきなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい」と言います。彼も、自分の娘を主に癒して頂き、安心でき、娘も、苦しむことなく、健やかでいられるよう願って主の元に来たのです。主が自分と一緒に娘の所に向かっていたのに、この思わぬ出来事で時間が取られてしまい、その間に、彼は娘が死んだと知らされました。聖書はこの事を通し、私達にこの父親の思いがどんなものだったかを考えさせます。

 この出来事の前に、ゲラサ人の地でも悪霊に憑かれた人が癒されるという素晴らしい事が起きています。主がその人から悪霊を追い出し、彼を正気に戻したのです。しかしそれが、二千頭もの豚の溺死を引き起こし、この地方の人々に不利益を生じさせたので、彼らは、自分達を救う為に来た主に救いを求めず、主を拒否したのです。主はこの地の人々を救う為に来て、彼を救うことでご自分の権威と力を示しました。しかし人々はその主を拒否し、この地方から出て行ってくれと懇願し、主は立ち去りました。

 ヤイロとその家の人々は、主がなぜ娘の所に直ぐ来て、癒してくれなかったのかと思ったのではないでしょうか。主はその話を傍で聞き、激しく動揺していたヤイロに「恐れないで、ただ信じていなさい」と言います。主にとっては、死にかけている彼の娘も癒された娘も同じ愛の対象と聖書は教えています。女性はイエスの事を聞き、この方の衣にでも触れれば、私は救われると思い、主の衣に触れました。彼女が触れると直ぐに、病気が癒されました。主は私達と同じ人でしたが、人でありながら神なのです。これも聖書が教える重要な事です。主は父から神の力を与えられていたので、主の内に神の力が充満しています。主が父にお願いしたからではなく、主自身の力と権威によって病を癒したのです。だから彼女が主に触れると直ぐに癒されました。しかし主は力が出て行ったと分かっても誰が触ったか分かりません。主が神でありながら人として世に生きることが、主が十字架で贖いの死を遂げ、全ての人の救い主となる為に必要だったからです。

 彼女は主の前に進み出て、真実を全て話しました。主は信じる者の求めに応えます。彼女が主の衣にでも触れば癒されると信じ、触れたからです。私達も主に祈れば叶えられると信じて求めることが大切と教えられます。

 ヤイロも、主が来て娘に手を置けば救われて、生きられると信じ、主に癒しを求めて来ました。しかし思わぬ事に時間を取られ、娘は死に、人の目には娘の癒しも救いも不可能になりました。私達も信じて祈り求めても、駄目な時があります。それが他人の為に駄目になったと知ると憤り、相手や主に不平を言ってしまいます。ヤイロの家の人々の言葉にも、そのような思いが感じられます。しかし主は彼の求めに応えます。私達も主に祈り求める事がどんなに不可能に思えても、思わざるを得なくなっても、諦める必要はありません。私達は、恐れず、ただ主を信じていればよいのです。

 主は、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れてヤイロの家に向かいました。主が三人を伴ったのは、そこで起きる特別な霊的な事を体験させる為です。私達も教会を知り、主を信じているのは、主が行う恵みの業を主と共にいることによって体験させる為に、主が私達を選んだからだと知りましょう。

 彼らが彼の家に着くと、人々が取り乱して、大声で泣きわめいたりしていました。人は愛する者の死を覚悟していても、病人が病気と闘っている内は希望があります。しかし死ぬと気持ちが一変し、絶望感に囚われ取り乱してしまいます。主はその彼らに、娘は死んでいない。眠っているだけと言います。仮死状態ではありません。肉体は確かに死んでいるのです。主は4章で風や湖を従わせました。5章で二千頭程の豚を湖で溺死させました。主は自然も生物の命も支配する方なのです。体験した人々は信じました。しかしこの家にいた人々はまだ知りません。彼らはイエスの言葉を聞いて嘲笑いました。世の人々は世の常識でしか判断出来ないからです。

 主は両親と弟子達だけを連れて娘の所に入って行きます。そして「少女よ、あなたに言う、起きなさい」と娘に呼び掛けます。「起きよ」は「目覚めよ」の意味も含みます。肉体的には死んでいても、主が支配する世界、領域では、彼女は死んでいません。聖書は肉体の死について大切な事を教えているのです。肉体は死んでも、娘は霊的には眠っているだけなのです。12歳だった娘は目覚めて直ぐに起き上がり、主の言葉に従い、歩き出しました。それを見るや、両親と三人の弟子は、口も利けない程に驚きました。もし葬儀の最中に死者が起き上がったら、私達も喜ぶより驚愕してしまうでしょう。この出来事は主の十字架の死によってのみ正しく理解される事なので、人々が誤解し、混乱しない為に、主は口外しないよう厳命します。

 最後に主は、娘に食べ物を与えるように命じます。聖書はこれにより、娘の肉体に命を取り戻させたことが事実であり、主は人の命を自由に支配する方と教えます。私達はこの偉大な力を持つ主を信じ、礼拝しています。どのような事態に直面しても、心に響く「恐れないで、ただ信じていなさい」との主の御声を心に納め、主が共にいると信じ、歩み続けましょう。