メッセージ(大谷孝志師)

教会が教会であるために
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2018年7月8日
使徒 20:17-28 「教会が教会であるために」  大谷孝志牧師

 今日の箇所は、パウロがミレトスに呼び寄せたエペソ教会の長老達への告別説教です。彼は「今、見よ、私は、御霊に縛られてエルサレムに行く」と言います。この言葉は、明確な宣言の調子になっています。この後、彼は確かに、エルサレムで捕らえられ、囚人としてローマに連行されます。しかし、自分は御霊に縛られているからエルサレムに行くのだと言います。彼は聖霊に「どの町でも鎖と苦しみが待っている」と告げられていました。彼は自由に行動し、福音を語っているように思えます。しかし彼は御霊が自分を自由に用いていると知っています。その御霊に自分を任せています。ですから、鎖と苦しみが待っていても、彼は「神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分の命は少しも惜しいと思」っていないのです。

 彼はアンテオケア教会からこの任務に遣わされ、アジア州、今のアナトリア半島で先ず伝道し、ユダヤ人から激しい迫害を受けました。その後も、数々の試練の中で、謙遜の限りを尽くして涙と共に主に仕えてきました。彼が困難に負けずに福音を伝え続けてきたことは、私達にとっての大きな励ましです。彼は人間です。様々な弱さも欠点も持ち合わせています。しかしそれができたのは、彼が御霊に縛られていたからです。御霊が彼に御心を告げていたからです。彼自身も伝道者としての歩みを自分なりに全うしようとしたのだと思います。教会が教会であり続けて欲しいと願ってこの務めに励んだのです。ですから彼は、教会の人々の益になるからと主が語れと示された事を余す所無く伝えてきたと確信をもって言い切ります。

 彼は、ユダヤ人にもギリシア人にも、神に対する悔い改めと、私達の主イエスに対する信仰を大胆に証ししました。彼は悔い改めて、主イエスを信じることの必要を人々に伝えたのです。教会が教会である為には、私達自身がこれを心すべきと教えられます。「悔い改めた人の罪を赦し、神に受け入れられる者とする為に、主は十字架に掛かって死んで、復活し、今生きている。」この事実を世の人々に証しすることが、先ず第一歩なのです。世の人々が、このままでは駄目だと知り、生き方を変えようとしなければ、主に心を向けられず、主イエスを信じて救われる者とはなれないからです。そのようにして救われた人が教会に加わるなら、それによって、教会は教会としてこれからも存在し続けられます。彼が自分自身の事としてこれを証したように、私達も自分が信じる信仰を世の人々に伝えましょう。神から離そうとする悪に縛られては駄目なのです。そうでなく、パウロのように御霊に縛られましょう。御霊に縛られたら自分の自由が利かなくなります。でもそれによって人は悪から解放され、本当の意味で自由になれます。

 パウロはエペソ教会の将来を心配しています。教会は悪魔の最大のターゲットなのです。悪魔は様々な問題を生じさせ、教会を教会でなくそうと働き掛けます。それを跳ね返す為に、彼は、教会はただの人間の群れではなく、神がご自分の血をもって買い取られた神のものであることをその教会の長老達に再確認させています。教会が教会として維持され、成長する為には、聖霊が監督として立てた人達による教会全体への配慮が必要になるからです。パウロが様々な形で直接関われる間は、彼がこの教会を正しく指導できました。しかし彼がローマに捕らえられたらそれが難しくなります。ですから、パウロがエペソで過ごした日々を思い起こし、目を覚ましていよと彼らに命じます。将来の活動の指針となるものが、実は彼らの過去の経験の中にあるのです。彼はそう言えるだけの関わりを教会に行ってきたのです。私達も一日一日を大切にしながら主に仕えていきましょう。

 彼は三年間、夜も昼も、涙と共に彼ら一人一人を訓戒し続けてきました。そこまでするエネルギーは素晴らしいものです。それは人からは出て来ません。彼を縛り、御心のままに行動させていた御霊から出ていたものです。しかし彼がしようと思ってしたことは事実です。だから、「私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分の命は少しも惜しいとは思いません」と言えたのです。教会が教会であり続ける為には、一人一人の信仰が大切です。とは言え、私は、涙を流して訓戒する程、自分自身に、相手の思いに確信を持てません。自分の思いを相手にぶつけて、相手を自分が正しいと思う方向に導くことなど、私にはできないと思ってしまうからです。しかし、パウロはそのような私達にもできることがあると教えます。それは、教会の人々を神とその御言葉に委ねることです。なぜなら「御言葉は、あなた方を成長させ、聖なる者とされた全ての人々と共に、あなたがたに御国を受け継がせることができる」からです。主イエスも「人にはできないことです。…神にはどんなことでもできる」と言っているではありませんか。

 教会は人の集まりです。牧師を含め皆、弱さと欠けた所を持っています。でも、エペソ教会の長老達に「できる」とパウロは言います。私達にもできます。御言葉には力があるからです。パウロが伝道者として生き、闘ったように、教会の働きを妨害したり、教会を教会でなくそうとする悪の力と闘いましょう。福音を聞くこと、主を信じて救われることが必要な世の人に彼が接したように接しましょう。彼が数々の試練の中で謙遜の限りを尽くして主に仕えたように、主に仕えましょう。彼は労苦して与え尽くしました。主が私達の闘いを必要としています。主は私達の努力に報い、豊かな実を与えます。教会が教会である為に、私達も彼のように生きましょう。