メッセージ(大谷孝志師)

私達にも与えられます
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2018年7月15日
マルコ6:30-44 「私達にも与えられます」  大谷孝志牧師

 聖書は私達に「今、信じ、礼拝している主イエスはこのように力のある方なのです。祈り求めるなら、主は必要なものを豊かに与えます。主がいつも共にいて助け、支えるからです。ですから、自分の全てを主に委ねて、従いなさい。そうすれば、安心して日々を過ごせます」と教えています。

 「使徒たちは自分たちがしたこと、教えたことを残らずイエスに報告した」とあります。彼らは何をしに行ったのでしょう。彼らは主に遣わされ、世の人々に、悔い改めるよう宣べ伝え、悪霊を追い出し、病人を癒す為に出て行きました。彼らは主に遣わされて出て行ったからこそ、その働きをすることができ、主の元に戻って来て報告をしたのです。しかしそこは、出入りする人が多く、食事を取る時間も、彼らの休息場所もありませんでした。主は優しい方です。彼らの心身に休養する場を与えようとしました。

 30節に「そこで彼らは、自分達だけで舟に乗り」とあります。34節に「イエスは舟から上がって」、33節には「彼らが出て行くのを見て…駆け付けて、彼らよりも先に着いた」とあるので、主も舟に乗り、主を必要としていた人々が、主を追い掛けたと考えられます。主は舟から上がり、大勢の群衆を見ると、彼らは羊飼いのいない羊の群れのようでした。三日間食べ物がなかった8章の群衆と違い、空腹が問題になってはいません。人々は導き守る者がいないので、現状に不安を感じ、疲れきっていたのです。だから、主は彼らを深く憐れみ、多くの事を教えました。人は物が有れば安心できるのではありません。主が教える世の事柄についての真実、神についての真理を知ることによって平安を得ます。人は分からないと不安になります。希望を持てると、今の自分の状態を理解でき、心が平安になるからです。

 さて、人々が主と弟子達といたのが、人里離れた所であることにも大きな意味があります。この世とは別な世界に彼らがいると聖書は暗示しています。私達も主に必要なものを求めて主の所に来ています。しかし、世に生きている私達は、世の事に関わらなければなりません。主との関係が薄れてしまいます。だから疲れます。主は、その私達を世から離れた所、教会へと導くのです。群衆は、主と共にいたい、主に必要なものを求めたいと思い、主の所に駆け付けました。私達も求めて教会に来ています。しかし、ただ教会に来ただけでは羊飼いのいない羊と同じです。この世の延長の自分を引きずっています。しかし、主はそのような私達を憐れみ、ここで御言葉によって養って下さるのです。主の私達への深い憐れみの眼差しに気付きましょう。それにより自分の心が主にしっかりと結び付きます。そうすると、自分に語り掛けている御言葉が心に染み入り平安になります。

 8章と違い、群衆の状態を心配したのは弟子達で、主に人々を解散させるよう求めました。ここで注目すべきは、弟子達が、人々は自分の力で自分の問題を解決するのが当然と考えたことです。主はその弟子達に「あなたがたが、あの人達に食べる物を上げなさい」と言いました。主は彼らが、群衆に与えるだけの食物を持っていないのを知っています。それなのに主がそう言ったのには理由があります。群衆の問題を解決するのは主であること、弟子達には与えることができると知らせる為です。私達の周囲にも主の助けを必要とする人々がいます。私達は世の人々に福音を伝えたい、全ての人に備えられている幸いな人生を見出して欲しいと思っています。だから伝道し、祈っています。確かに福音は、人によって伝えられます。私達も人から福音を伝えられました。ですから祈り、自分なりに働き掛けを続けています。しかし聖書は、そこで、自分の力で何とかしようとしてはいけない、その思いを捨なさい、と私達に告げています。確かに教会の働きがなかなか実を結びません。でも実を結ばないのは、自分が駄目なのか、相手が駄目なのかと考える必要はないと聖書は教えます。伝道は「人事を尽くして天命を待つ」のではないのです。なぜなら、それには自分を主とする考えが根底に潜んでいます。「自分が、人が」と考える時、私達自身を主の上に置いてしまっているのに気付いていません。その時、自分を主の僕とするのでなく、主を自分の僕のように考えてしまっているのです。

 主の「あなたがたがあげなさい」は、弟子達の「自分が」の思いを打ち砕き、彼らに群衆に与える喜びを味わわせる為なのです。主に従うなら私達にもできます。私達も周囲の人々に救いの恵みを分け与えられます。弟子達が自分達には不可能と思ったのは当然です。私達も自分を見ると自分の弱さ、小ささしか見えません。主は彼らに持ち物を確かめさせました。彼らの現実を確認させました。量の小ささは主には問題ではありません。彼らが主の弟子であり、主の業の為の働き手であることが重要なのです。その彼らが持っているものを主は用います。私達も同じです。教会に繋がり、主を信じていればよいのです。主はパンを裂き、人々に配るよう弟子達に与えました。そのように、主は御言葉を、真の知恵を、救いの恵みを、人々に配るよう私達に与えます。それが主イエスです。聖書はここで「私達にも与えられると知れ」と教えます。自分を考えると到底できないと思うかもしれません。ですから「聖書は、私達が信じ、礼拝している主イエスはどんな方と教えているか」と最初に話した事を思い出して下さい。

 群衆が満腹したように、主は私達を用いて、主を信じ、救われる喜びで人々の心を満たさせます。主は人々を深く憐れみ「必要なものを与えよ」と私達に命じています。主の御心に応え、私達も与える者になりましょう。