メッセージ(大谷孝志師)

相手の為になる事を
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2018年7月22日
ヨブ8:1-7 「相手の為になる事を」  大谷孝志牧師

 困難に直面した人の愚痴や呟きを聞かされた時、暫くは静かに聞いていても、余りの身勝手さに、心の中で腹を立ててしまった経験が私にもあります。ヨブの友人ビルダデも、もう一人の友人エリファズとヨブとの対話を聞いていて、ヨブの言葉に我慢できなくなり、ついに話し始めました。

 彼はヨブの言葉を「激しい風」に喩えます。「風(プニューマ)」はここでは、「霊」ではなく、「空しさ」を表しています。彼の言葉に激しい空しさを感じたからです。教会も人の集まりなので、友、先輩、牧師が親切に話していると分かっても、言葉や語り方に自分には我慢できないものを感じてしまい、こんな人とは思わなかったと落胆したり、がっかりしたりし、空しさを経験した人もいるのではないでしょうか。人の言葉は自分の心の状態、相手の状態への自分の思いで、受け取り方が大きく違ってしまうからです。

 人は相手の内側を見抜くのは難しいというか、不可能に近いので、外側で判断するしかありません。しかし、外は綺麗でも内もそうとは限らず、逆の場合もあります。だから、自分には我慢できなくても他人は平気だったり、後で自分の方が考えが足りなかったと後悔する事が多々あります。ビルダデもヨブの呻きや叫びの内実を悟れなかったのです。ですから彼も自分が感じ取り、理解したした事で判断するしかありません。躊躇したかもしれません。でもヨブは彼が持ち続けてきた確信と違う行動を取り続けていました。彼には、放っておけばヨブが間違った道に進むと感じられたのです。自分が正しいと思う事を告げることは、ヨブにとって良い事と確信して、彼は自分の確信を語ります。ここに私達人間の限界が有ります。

 もしかすると犯したかも知れない子供達の罪の為に、ヨブは定期的に犠牲を献げ続けていました。そのヨブに、子供達の死は彼らの罪のせいとしか受け取れない言い方を彼はします。余りにも非情です。確かに神は正義を曲げません。それは真実です。ヨブは神を恐れて悪から遠ざかっていた人です。その彼を神は退け、激しい災いを与えました。彼はヨブが罪を悔い改めれば神は祝福すると言います。それもまた真実です。しかし、彼は絶望しかねない悲しい経験の中で、神の前にひれ伏し、神を礼拝しました。神は、サタンの申し出を受けて、その彼に更なる災いを与えました。御心は人には理解し得ません。神は見えず、神の定めも道を分からないからです。しかし、彼は災いはヨブの罪の故と断定し、ヨブが熱心に神を求め、全能者に憐れみを乞うなら、神はヨブを祝福するだろうと言います。彼は自分は正しく、全て分かっていると思い込んでいます。私達も人に忠告する時、立ち止まり、同じような思いに囚われていないかを考えましょう。

 ビルダデは、エリファズが言葉を尽くしても聞き入れないのは、ヨブが自分の知恵で判断しようとしているので、自分の非に気付けないと考えました。ヨブが先祖達が長い歴史の中で究めた知恵に学ぶなら、自分達の言葉の確かさが分かる筈と考えたのです。彼は御言葉に頼らず、先祖の言葉、自分の考えに頼ったのです。私達も深い悩みを感じて苦しんだり、混乱している人に、聖書を読むと良いですよ。あなたを愛している主は、必ずあなたに正しい道や対処法を教えますというような事を勧める事があります。しかしその時、心の中で、私のしている事は正しいと考えては駄目です。それでは相手を突き放し、ビルダデ達と同じ過ちを犯すことだからです。

 彼がヨブの幸せを願っているのは確かです。厳しい事を言いますが、底に流れているのは、ヨブが正しい道を見出し、その道を歩み、神の豊かな祝福を受ける者となって欲しいとの彼なりの愛情なのです。しかし愛があれば良いのではないのです。相手の為になる事をするのは難しいのです。

 彼はヨブの為に一生懸命話していると思っています。私達にとって、神はこういう方で、こうすれば、こうする方であるという自分の信仰的確信は大切です。しかしそれを相手に押し付けている場合があると考える必要があります。彼はヨブに押し付けているので、彼を苦しめる結果になっていることに気付かない、いや気付けないのです。私達は、世の人が抱えている悩みを解決する方がイエスと知っています。これは真実です。しかしそれを伝えるのはとても難しいです。人の悩みは気になり、できればこうすれば良いと教えたくなります。彼もヨブにそうしようとしています。しかし今のヨブにとっては、彼の思いは、言うならば余計なお節介なのです。

 主は「先ず自分の目から梁を取り除け」と言います。自分の信仰的確信というのは往々にして梁です。それに気付き、取り除くよう主は命じます。主はマタイ5:3-10で、どんな悩み苦しみを背負っていてもその人は幸いだと教えます。これは主が教える真理、真実です。抱えている悩みから自由になって欲しいと相手に願うなら、先ず自分自身がこの主の御言葉の前に立つことです。そうすれば「目から鱗」が落ちます。困難の中で悩み苦しむ人が、自分は本当は幸いなのだと気付くにはどうすればよいかという今まで気付かなかった課題が見えてきます。私達は、相手にとって良い事は、主の愛に触れて感謝と喜びを持って生きられるようになることと知っています。相手がその生き方を見出す為には、自分の信仰的確信を押し付けずに、先ず相手に寄り添い、相手の重荷を自分の重荷として負うことです。彼らは彼に重荷を取り除く手段を教えても、彼を突き放すだけで、自分の重荷として負おうとしませんでした。相手の為になる事をするには、その人に寄り添い、その重荷を自分の重荷として負うことだと聖書は教えます。