メッセージ(大谷孝志師)

祈り続けよう
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2018年8月5日
ルカ11:5-13 「祈り続けよう」  大谷孝志牧師

 なぜ祈り続ける必要があるのでしょうか。私達は弱いからです。神の助けが必要だからです。自分の弱さを素直に認めて、祈りという神との霊的交わりを大切にしましょう。神は求める人を喜んで助けてくれます。勿論、祈れば直ぐに与えられるのではありません。神は祈り続けさせることで私達の信仰を訓練し、成長の機会とします。祈りは大切です。神との交わりの時を持つことが大切なのです。同時に私達は人との交わりの中に生きています。教会の中にも様々に違う性格の人がいます。一人として同じ人はいません。これも信仰訓練と成長の為の神の御心です。神は私達の信仰を成長させる為に、性格の違う人を周囲に置かれていると信じましょう。受け入れ合い、理解し合い、互いに高め合える機会となります。難しさを感じる時もあります。神は私達の教会が霊的に豊かに成長することを願っています。私達を助け、御手をもって導き、共に成長させて下さいます。その為にも密室の祈り、諸集会での祈りを大切にし、祈り続けましょう。

 主イエスは、この譬えの場面を常識的には無理と考えられる状況に設定しています。ある人が無理な願いと判っていながら友達の家に行きます。彼は自分と友達は信頼で結ばれているからパンを貸すと信じています。主は、無理だと判っていても神は与えると信じて祈れと教えています。祈りが叶えられなくても、今はその時でない、無理だと諦める必要はありません。なぜなら御心は人の常識を超えています。だから祈りが必要なのです。

 私達は無から有を生じさせる神を信じているのです。私達が祈る時、その祈りは無限の可能性を持つと信じているでしょうか。病気に苦しむ子の父が主に「信じる者には何でもできる」と言われました(マルコ9)。その父は、「信じます。不信仰な私を助けて」と主に願い、叶えられました。彼は主に「できるなら」としか言えなかったからです。私達も同じような気持ちで祈っていないでしょうか。それは主に対する不信仰だと聖書は教えます。

 祈るは跪くから来た言葉です。圧倒的力を持つ方の御前に跪いて乞い願うのが祈りなのです。神は不可能な事は無い方、変える力がある方です。だからこそ求めれば良いのです。今日の箇所で主は、そこに立って祈れと教えます。彼は友達なら叶えてくれると信じて訪ねました。友達は、お前の望みは今は叶えられないと拒絶します。私達も神なら叶えると信じて祈ります、願いはすぐには実現し無いのが現実です。でも私達は必要だから祈り求めます。祈って叶えられなくても、諦めずに祈ります。この人も求める物を持っていませんが、友達は豊かに持っています。だから彼に求めます。神は人が求めるものを無尽蔵に有する方だから求めればよいのです。

 さて主は、友達は彼が執拗に頼むと起きて、必要な物は何でも与えたと言います。主は私達に、執拗に神に頼めば得られると教えているのです。私達は自分の家族や近隣の方々が礼拝に来るよう、救われるよう求めています。でも実現しません。でも諦めずに執拗に願い続けています。なぜでしょうか。神は必ず叶えるとの確信が、願っても無理との思いに勝つからです。主は、祈ってもどうにもならないと言う思いが湧いてくる人の弱さを知っています。ですから、祈り続けさえすれば叶うとの希望を持てと教えます。与えられると信じて執拗に求めることが、神への全面的信頼の告白となり、神はその祈りの姿勢を喜ぶからです。神に喜んで頂きましょう。

 主は山上の説教で、神に求めるなら、与えられると教えました。それに続いて「探せ、門を叩け」と行動を加えているのはなぜでしょうか。祈りは心の内でじっと願うだけでなく、祈りは実現して欲しいと願って、具体的に行動していくことでもあるからです。私達は祈り求める時、「棚からぼた餅」のように、唯じっと座って祈りつつ、神が与えるのを待つだけでしょうか。私達はチラシを配ったり、言葉を掛けたり、誘ったりと行動します。主はそれも大事だと教えています。主は行動に結果を与えられる方だからと。

 とは言え、私達は、求めても直ぐには与えられません、捜し物もなかなか見つかりません。門は本来侵入者を防ぐ為のものだから、簡単には開きません。しかし、神が支配しているので、私達は求めれば与えられ、探せば見出し、門を叩けば開かれます。神がそうさせるからです。何故そうなるのかを、主は親子関係に当て嵌めて教えます。親なら自分の子は大切です。魚の代わりに蛇を与える親、卵の代わりに蠍を与える親はいません。蛇と蠍は、子に危害を加えるだけでなく、ユダヤ教は悪の手先を表すものとしていました。神は人を我が子として愛し、悪の誘惑に曝させません。神は蛇や蠍を与えて人を危機に陥らせることはしないからと主は教えます。

 主は人間を悪い者と呼びますが、神に背き、御心を行わないという悪い性質を持つ者であってもの意味で、悪魔の手先という意味ではありません。神に喜ばれない生き方をしている人でも、子に喜ばれる善い事を行う筈と主は言います。親が子に無条件で必要な食物を与えるように、神は求めて来る者を全て無条件で我が子と認め、聖霊という最高の賜物を与えます。神が知恵と力を与えるからこそ、人は受け、見付け、開かれるのだと教えます。しかし、祈るという行動を起こさなければ何も実現しません。神が心を動かすまで執拗に祈りつつ求めよと教えるのは、私達の信仰の訓練と成長の手段として神は用いているからです。祈れるから、私達は、忍耐し、練達し、希望を持ってこの世に生きられます。祈り続けましょう。私達は神が支配する世界に生きています。信仰によってそこに立ち祈りましょう。