メッセージ(大谷孝志師)

主は私達の全てを知る
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2018年8月12日
マルコ6:45-52 「主は私達の全てを知る」  大谷孝志牧師

 聖書には主イエスの不思議な言動が数多く記されています。私は教会に行き始めた頃、全く信じられませんでした。教会の人達は何でこんな事を信じられるのだろうと不思議でした。でも、主イエスが今も生きていて、私と一緒にいると分かると、主イエスだからできたと信じればよいのだと考えられるようになりました。聖書は真理、真実を教えているのだから、そのまま信じればよいと信じたのです。信じたというのは、それでも私の心に抵抗のようなものがあったからです。信仰は成長するものなのですね。今では、確信をもって聖書に書かれている事柄は真実だと言い切れます。

 今日の箇所も不思議な出来事です。イエスが水の上を歩いたのですから。4章にもガリラヤ湖上の出来事があります。共に夕方以降ですが、状況は全く異なります。4章では主は弟子達と共に舟にいますが、今日の箇所では、主が弟子達を無理矢理舟に乗り込ませ、先にベツサイダに行かせたからです。彼らは向かい風の為に漕ぎあぐねてはいましたが、4章のように危機的状況ではありません。しかし主はそれを見て、夜明けが近付いた頃、湖の上を歩いて来て、側を通り過ぎるつもりだったとあります。これは不可解としか思えませんでした。マタイ14章とヨハネ6章に同様な記事がありますが「来た」とだけ記し、不可解な行動は省いています。しかし今回、マルコがこう記したのは大切な事を教えようとしているのだと知りました。

 夜明け前は薄暗く識別が困難な時です。私達も主がどんな時も共にいると信じます。しかしその識別は私達人間には不可能です。信じるだけです。彼らはそこに来たイエスを幽霊だと思い、叫び声を上げました。私達も主の働き掛けを悪のそれと勘違いし、恐れてしまうことはないでしょうか。

 主は湖の上を歩いて来ました。常識的に考えると不可能です。私達も人の働き掛けは確かなものとして受け止めても、聖書が記す出来事が真実かどうか、主は私に御心を行っているのかとの疑いを拭い去れないのではないでしょうか。ですから想定外の恐ろしい出来事に直面すると、怯える必要はないのに、恐怖に怯えてしまうのです。私達がその状況から抜け出すには、主の御声を聞き取る以外にありません。人が語るようには聞けませんが、神は私達に聖霊を住まわせているので、私達は心に響く御心を感じ取れるからです。私達は主に助けられ、導かれなければ生きていけません。私達は主が共にいると信じるから、信仰生活を続けられます。弟子達は5千人給食の奇跡を体験しました。主がしようと思えば、できない事はない方と知りました。彼らはイエスが湖の上を歩いてくるのをおぼろげながらにしろ見ました。しかし彼らは、それがイエスと信じられなかったのです。

 なぜでしょう、先の奇跡体験が主に不可能はない事実に結び付かなかったのです。どんな時も主を信じれば良いのです。主は彼らの側を通り過ぎることで、自分達が主を信じていない事実に気付かせようとしたのです。

 さて、主は彼らが舟で向こう岸に向かわせると、祈る為に山に向かいます。主は人として世に生きているので、父なる神との霊的交わりが必要だったのです。夕方になった時、舟は広大なガリラヤ湖の真ん中にありました。その中で彼らは向かい風に漕ぎ悩んでいました。彼らは自分達の無力さを思い知らされていましたが、彼らが神に祈ったとは書いてありません。私達もこの世にいて、同じような状況に立たされる時があります。主は見えないし、声も聞こえません。善処しよう、解決の為に努力しようと思い、苦闘しても解決しないには時、力の限界を感じ、孤独感に心を奪われてしまいます。主が助け手であることは信じています。しかし主が助けるとの確信は持てないから、とにかく自分で何とかしようと考えてしまうのです。聖書はそれは不信仰なのだよと私達に教えます。どんな場合でも、先ず主に委ね、主が行うのを忍耐強く待つことが、私達の為すべき事なのです。

 主は、弟子達が「漕ぎあぐねているのを見て」とあります。私達が世の中で格闘し、苦闘しているのを主は見ています。だから私達は孤独ではありません。主は湖の上を歩いて彼らの所に来ました。主は世の常識では不可能だと思う事を行う方です。聖書は、だから諦める必要はないと私達に教えます。主は私達の期待に応え、目的を達成させようと私達を助けに来る方です。その事を信じるのは確かに難しいです。だから聖書はこの出来事を記すのです。聖書は御心を示す神の言葉です。信じればよいのです。しかし主は側を通り過ぎようとします。彼らは主を信じ、従っていましたが、パンのことを理解せず、心が頑ななままでした。それでは不信仰と同じなのです。彼らが自分達が不信仰だと気付き、心の殻を破って彼らの信仰が一段階成長する必要があったからです。私達も、主がどんなに力有る方かを忘れる時があります。主はその私達を見ています。そして私達の信仰が一段階成長するようにと働き掛け、私達を試してきます。主は救い主として私達を見ているからです。湖の上を歩くその主を見て彼らは幽霊だと思い、怯えて叫び声を上げました。その彼らに「私だ。恐れることはない」と主は言います。主が彼らのいる舟に乗り込むと風は止みました。

 私達はこの事を通して、何も恐れる必要がないと知らされます。主は私達の救い主として共にいるのです。世には悪魔がいて、私達を惑わし、怯えさせます。悪魔に隙を与えない為には、主が舟に乗り込むと彼らを苦しめていた風が止んだように、私達が自分の人生の小舟に主が共にいるとの意識をしっかりと持つことです。そうすれば平安が私達に与えられます。