メッセージ(大谷孝志師)
私に真に必要なものは何か
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2018年8月12日
ピリピ3:1-11 「私に真に必要なものは何か」 牧師 大谷 孝志

 人間って不思議です。弱いと思えば強いし、強いと思うと柔いからです。私は小学生の頃、「小公女」「小公子」という小説が好きでした。小公女からはどんなに環境が変わろうとも、それに左右されずに自分らしさを保つ力を、小公子からは相手がどんなに強大であろうと、それに左右されずに相手を変える力があることを学びました。今考えると、彼らが持っていたその力を私も持ちたいと思います。それを持てたら、どんなに素晴らしいだろうと考えました。しかし、そんな力はなくても自分を自分らしくする力、他人にはない良さが自分にはあると気付きました。誰でも人は、自分にとって得となるものを持っているのではないでしょうか。それを発揮しながら、皆自分は自分らしく生きているのだと思います。

 この手紙を書いたパウロも、自分にとって得だったものを並べ立てています。5,6節は、私達にすればそれがどうだとしか言えませんが、当時のユダヤ人には、彼が完璧で非の打ち所のない人に見えた筈です。彼は自分にとって得であるものを用いてエリートコースを一直線に歩んでいました。でもその彼が、今まで自分がしてきた事は全く無駄だった、損な事をしてきたと思うようになったと言います。彼は教会を迫害しました。彼は教会の大切な仕事をしていたステパノを殺すことに賛成し、ステパノ殉教後に起きた教会に対する激しい迫害の中心人物でした。教会を荒らし回り、主の弟子達を牢に入れ、なおも殺害しようと息巻いて、ダマスコに行こうとしていました。彼は自分がしていることは正しいと信じていたのです。しかし、彼は180°生き方が変わりました。なぜ変わったのでしょう。復活の主が彼に出会ったからです。十字架に掛かって死んだとばかり思っていたイエスが復活して生きていると知り、バプテスマを受けて主の弟子になったからです。彼は変わることによって、律法の教師としての地位も名誉も収入も失いました。この世的に言えば全てを失いました。「私はキリストの故に全てを失いましたが、それらは塵芥だと考えている」と言います。それまで自分にとって得だったものを塵でも払うように振り払っています。しかし無価値になったのではありません。

 その理由を知るには「キリストの故に」が重要です。彼にとってそれまで得だと思っていたものが、キリストを真に知る為の障碍となっていたのです。キリストを霊的に見えなくしていたのです。彼は神を信じ、神に全力で仕えていました。いや、自分ではそうしているつもりでも、実は違っていたのです。でも、自分の力では気付けませんでした。だからキリストが彼に現れて、事実を知らせたのです。そしてキリストに愛され、助けられ、導かれる人生がどんなに素晴らしいものであるかを彼は知ったのです。キリストを知った時、それまで得だと思っていたものが塵のように思えました。彼の価値観、人生観が大きく変わったのです。

 私達はこの世で生活していく上で経済的、社会的に様々な人やものを必要としています。それらが無ければ生きていけないと思い、それらを失わないようにと懸命になります。でもそれしか見えなくなってしまうと、主が見えなくなっているのに気付きましょう。それらから一旦目を離し、主を見つめましょう。主のみを見つめると、それ迄それらのものがないと生きていけないと思っていたものへの見方が変わります。主が私に必要な人やものとして与えたものと見ることができるようになります。これがあり、この人がいて良かったと思えるようになります。自分には真に必要なものが与えられていると知り、安心できます。感謝できます。