メッセージ(大谷孝志師)

神の言葉を無にしない
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2018年8月19日
マルコ7:14-23 「神の言葉を無にしない」  大谷孝志牧師

 ペテロの手紙二3:16に「パウロの手紙には理解しにくいところがあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の箇所と同様、それらを曲解して、自分自身に滅びを招きます」とあり、昔から聖書を曲解して誤った道を進む人達がいたようです。主イエスの8節の言葉はもっと厳しいです。ユダヤ教の指導者達を偽善者と呼んでいるからです。その理由は、彼らが「神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守って」いたからです。主イエスは神の戒めを教える立場にいる彼らが、神の言葉を自分達の知恵で理解、解釈し、その人の教えを神の教えとして教えていると言います。

 私達もうっかりすると同じような事をしてしまう時があります。もし、神の御心だと思って自分の考えを人に押し付けてしまったとすると、主が言う偽善者になってしまいます。自分は主イエスを信じ、神を愛し、人々を愛して、自分も相手も神に喜ばれるよう願って生きようとしているのに、逆の事をしてしまうのです。何故そうなってしまうのかと言うと、人の心の内に罪があり、そこから悪い考えが出て来てしまうからです。主はその事を知っています。私達がそうだから、主は、世に来て十字架に掛かって死んで、復活し、主イエスを信じる人の罪が取り除かれるようにしたのです。でも、主を信じても自分の内側はなかなか清くならないのが現実なのです。そんな私達はどうすれば善いかを今日の箇所を通して学びましょう。

 ユダヤ人は食べると汚れる食べ物は汚れるから避けました。しかし主は、汚れた食べ物を食べても人は汚れない、それは心には入らず、腹に入って出るだけだからと教えます。人を汚すものは、元々人の内にあるのです。つまり、人の内にある罪が、淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行等の21,22節の悪として出て来て、人を汚すのです。私達も心の内にその可能性があると認めましょう。だから救われ、清くなる必要があるのです。私達は人を傷付けようと思って教会に来ていないし、この世でも生きていません。ですから悪い考えと気付いたら極力出すまいとしています。でも、習慣的、この世の慣わし的に、或いは自分では正しいと思ってそれを出し、相手を傷付けてしまう時があります。主は、それでは自分は正しいと思って行動しながら、御心に反する事をしていると教えます。勿論私達は悪を行っているとは思っていません。そんな事をしたら教会の交わりからはじき出されます。しかしそのような思いを持ったことが無いと言い切れるでしょうか。私は自信がありません。自分の心は自分で分からないからです。

 今日の主の教えは、主の弟子達のある者達が、洗っていない手でパンを食べるのを見過ごせなかったパリサイ人達の問い掛けに始まっています。

 確かに弟子達がした事は衛生上良くありません。しかし主は、彼らが昔の人達の言い伝えを守らないと責めたのは間違いだと指摘したのです。主は、私達が相手の行為を責めたくなる時は、自分の判断が御言葉に照らして正しいかどうかを基準にすべきと教えています。自分の思い、皆がそう思うだろうと判断して、人の過ちを正したつもりでいると、悪魔に付け入る隙を与えます。主は自分を知れと言います。偽善者にならない為には、まず自分が御言葉に聞き従っているかどうかを顧みることが大切なのです。

 主はこの教えを通して、信仰が形式化しないよう注意を与えています。主は弟子達がした事を善いと言うのではありません。聖書は人の過ちを見過ごせとは教えません。神の言葉より人の教えを優先させることが間違いなのです。「コルバン」という言葉が出てきます。これは神への献げ物です。人が「これはコルバンです」と宣言すると、他の人の為に使えなくなります。生活費に余裕があっても、このお金はコルバンですと言えば、親を扶養しなくても良いとパリサイ人は教えていました。それは「あなたの父と母を敬え」という神の戒めを蔑ろにしていることだと主は指摘しています。

 私も昔、人の教えが神の言葉に置き換えられているのではないか、と戸惑ったことがあります。「前の先生はこうしていた。前の牧師夫人はこう言っていた」と、同じようにしてほしいというか、しなければいけないような言い方をされたことがあったからです。言っている本人はそれが神に喜ばれる事だと考えているのでしょうが、前の牧師も夫人も人であって、その言動は、それぞれの個性や人生経験から出てきたものなのです。当時は適切な言動だったでしょうが、「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」です。同じ状況に見えても、時や人の流れの中で適切な事柄は変わるのです。しかし聖書は「イエス・キリストは昨日も今日も、とこしえに変わることがない」と教えます。正しい判断をするには、必要な御言葉を先ず主に祈り求めることが必要です。自分の知恵、経験だけでは、人の言葉や思いを御心と誤って信じ、人を混乱させたり、傷付けたりする時があるからです。

 パリサイ人達は信仰深く、生活が御言葉から逸れないように細心の注意を払っていました。彼らは誠心誠意、心を尽くして御心を判断し、人に伝えました。しかし、人は聞き取った御言葉と自分の思いを混同しやすい弱さを持ちます。主はその人の弱さを知ります。ですから「私の言うことを聞いて、悟りなさい」と言います。静かに聖書を読み、主の言葉を慕い求めましょう。自分を虚しくして御言葉が自分の心に注ぎ込まれるのを待ちましょう。求めれば与えられると主は教えます。主の約束を信じましょう。主の言葉には力があります。この教会に連なる一人一人を御言葉を正しく聞いて養われる者とし、私達に御心を正しく行う為の知恵と力を与えます。