メッセージ(大谷孝志師)

キリスト者の生き方
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2018年8月26日
ヨブ9:1-24 「キリスト者の生き方」  大谷孝志牧師

 毎月、第4週にヨブ記を学んでいます。これはイエス・キリストが生まれる四~五百年前に書かれた書物です。古代オリエントの粘土板には「罪のない正しい人が何故苦しむのか」を主題にした諸文書があります。ヨブ記はその流れを汲みながら、イスラエルの神を信じる者として、神は人に何を望み、人はどうすれば神に喜ばれる者となれるのかを記しています。

 正しい事をしていれば人は幸せに暮らせる訳ではありません。突然事故や災害に遭ったり、病気になることもあります。ヨブ記に出て来るヨブの友人達は彼が激しい災いに遭ったのを知り、慰める為にやってきました。彼らはヨブが災いに苦しむのは、彼が神に罪を犯したからと考えました。彼らの信仰では、神は正しい者を祝福し、罪を犯した者を罰する方でした。

 それでは、豪雨災害に苦しむ人や誰でも良かったと考えた人に刺され、重傷を負った人は神に逆らう事をしたからなのでしょうか。私の最初の妻は、都立保育園の保母をしていました。しかし私と結婚し、JRの駅までバスで1時間半、友達ちは誰もいない宮城県の岩手県境の教会に住むことになりました。三ヶ月の長女が急性肺炎を起こし、危険な状態になったこともありました。妻は、将来の事を考え、幼稚園教諭の資格を得る為に通信教育を受け、東京にスクーリングにも行きました。しかし、スキルス性胃ガンに罹り、医者が気付いた時は末期、余命三週間と診断されました。懸命に主イエス、神の為に生きていたのに、二人の子を遺し、34歳の人生を閉じました。勿論、天の御国で主と共に平安に過ごしています。ほぼ同じ時期に友人二人も結婚しましたが、夫妻で元気に生きています。、私の妻は神に喜ばれない事をしたのかと言えば、私はそうではないと信じています。

 ヨブは、自分が罪を犯したのなら、その事実を教えて欲しいと神に訴えています。彼は息子達が気付かずに犯したかもしれない罪を赦して頂けるよう神に犠牲を捧げていました。自分も罪を犯さないように心を尽くしていました。でも人間であり、完全無欠ではないことを認めています。だから、自分が今苦しむ理由を教えて欲しいと神に心から訴え続けるのです。

 ヨブ記を含む旧約聖書で、神は罪を犯した人々を容赦なく罰し、滅ぼします。神の民イスラエルが、神の豊かな祝福を受けて生きる民となるのを妨害する者を排除する為です。しかし現実社会は矛盾、不合理に満ちています。ヨブは22-24節で「神は誠実な者も悪い者も共に絶ち滅ぼされる。突然にわか水が出て、人を死なせると。神は潔白な者の受ける試練を嘲られる。地は悪しき者の手に委ねられ、神は地の裁き人らの顔を覆われる。神がなさるのでなければ、だれがそうするのか。」と痛切な叫び声を上げます。

 ヨブは、神は万物の創造者、全知全能であり、人を含むこの世界は全て神の支配の中にあると信じています。主イエスを信じる人は、同じように信じています。神は絶対者であり、人は神に造られたもの、神の意志のままに生かされているに過ぎません。何故恵まれた人と災いに遭う人がいるのでしょう。人間に自由意志が与えられ、神に喜ばれる事も神に罰せられる事も出来るからです。ヨブは「人はどのようにして、神の前に正しくあり得ようか」と言います。人は神の意志を推しはかれても、断定できないので、自分は正しいと思ってした事が逆の場合もあるからです。ですから、人が自由に行った結果、それが神に喜ばれれば祝され、神の意志に反していれば、災いに遭うことになります。これがヨブが生きた旧約の世界です。

 ヨブは自分が神に罰せられていると知っています。でもその理由を神が彼に知らせないから苦しんでいます。どうしたらよいか分からずに、ただ苦しむだけです。友人達は、神が罰したということは、あなたが罪を犯したからだ、それを素直に認めて、神に罪を告白し、赦しを請えば、神はあなたを祝福する筈だと彼に迫ります。友人達は彼に元通りの幸せな生活を送って欲しいと願うからです。しかしヨブ記は最初に、神が彼に災いを下したのは、彼の罪の故ではないと明記しています。友人達は自分達の信仰的確信によって、彼を断罪し、彼を責めているのに気付かないのです。

 ヨブも友人達を含め、旧約の世界に生きる人々には、正しい方法が分かりませんでした。ですからイエスが世に来て、神の意志を直接知らせたのです。イエスは神の言であり、人となった神だからです。イエスは神を父と呼び、自分と神は一つだと教えました。私を見た者は父である神を見たのだとも言いました。人々はイエスの言動を通して神が自分達と共にいると知り、驚き、感動しています。しかしユダヤ教の指導者達はイエスを捕らえ、裁判に掛け、神を冒涜したとして断罪し、群衆はイエスを十字架に付けろと叫びました。ローマ総督はイエスを十字架に掛けて処刑しました。

 人々はイエスから真理を教えられました。しかし神の意志を悟れなかったのです。人としての限界を破って、神の世界に飛び込めなかったのです。イエスは十字架に掛かって死ぬことにより、神と人との間にあった壁を取り除いたのです。ですからイエスを主、神の子、救い主と信じる人は、神と信仰による繋がりを持てます。神が私を愛し、恵みを与え、知恵と力を与え、私の歩みを守っていると知り、安心して生きられます。ですからクリスチャンは良く言います。「私に信仰が無かったら、どうなっていたか分からない」と。とは言え、神、イエスが完全に分かっている訳ではありません。でも不思議な事ですが、聖霊に助けられて、神の愛と導きを感じながら生きられるのです。これが聖書が教えるキリスト者の生き方なのです。