メッセージ(大谷孝志師)

同じ基盤に立つ私達
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2018年9月2日
ガラテヤ1:1-5 「同じ基盤に立つ私達」  大谷孝志牧師

 私はこれ迄10の教会・伝道所で主のご用に当たらせて頂いています。川崎駅の商店街近くの教会、田園地帯の中の教会、地方都市の中心の教会等場所は様々、礼拝出席者も私達夫婦だけの時が七週間続く伝道所から、平均30名、多い時は50名近い教会と様々です。教会は人の集まりです。教会員が主体的に働く教会もあれば、伝道と牧会は牧師家族にお任せの教会もありました。開拓伝道所も有れば、明治以来の歴史を持つ教会もありました。しかしその中で、主は絶えず共にいて、必要なものを与え、共に主の御業に関わる人々を与え続けていてくださいました。欠点の多いこの私を主が導いて下さり、今、この教会で働いていていられることを感謝しています。

 教会の人々と私の関係も様々でした。今週からガラテヤ人への手紙を第一週に学びますが、ガラテヤの諸教会とパウロの関係は、「私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分達を召してくださった方から、このように急に離れて他の福音に移っていくことに」「ああ、愚かなガラテヤ人。十字架に付けられたイエス・キリストが目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか」との言葉示すように、良い関係ではありませんでした。今日の箇所も幾つかの点で、それを暗示しています。第一は「ガラテヤの諸教会」という宛先です。他の教会への手紙は、ローマ、エペソ、ピリピ、コロサイが「聖徒達へ」、コリントⅠ、Ⅱが「神の教会へ」テサロニケⅠ、Ⅱが「神と主イエス・キリストにある教会」で、この手紙だけがぶっきらぼうな言い方になっています。また、自分が使徒である理由を詳しく記していることからも、この教会の人々が、彼の使徒としての権威を疑っていたと思われます。しかし彼は、自分が正当に評価されないと感じているから冷たい口調なのではありません。もし彼が感情に任せてこれを書いたら、聖書に入れられた筈は無いからです。

 彼は読者が自分をどのように思い、どのような福音理解に立とうとも、それに左右されません。この手紙には、彼らが主イエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われる福音に立ち返る事を求めて止まない彼の熱い思いが感じられます。彼らが自分自身の立つべき所を再発見できるよう、自分の隣人として愛し、誠心誠意、心を込めてこの手紙を書いています。

 彼ら自身の為に、正しい福音に立ち返るよう求めていますが、彼らには通じません。私も牧師として毎週神に示された御言葉を語っていますが、何か壁のようなものがあって、十分に届けられないでいるのではというもどかしさを感じることがあります。神の言を人が人に伝えるのですから、難しいのは当然です。パウロですらも、この事に苦悩させられています。

 彼には教会を迫害していたという負い目がありました。更に、彼が伝えた福音はエルサレム教会の人達が認めた教えと違い、律法から自由だったことで、彼が真の使徒であるかどうかをガラテヤの諸教会が問題にしていました。彼に限らず、福音を伝えようとする者は人なので、欠点や負い目、弱さを背負っています。しかしそうする人にとって一番大切なのは、主が私と私が福音を伝えようとする人々を愛し、私と相手の為に死んだ事です。全ての人はこの同じ基盤の上に立っています。皆同じ基盤に立っています。

 パウロはこの手紙の執筆者に「私と共にいる全ての兄弟たち」を加えますが、これは他に例がありません。自分が書く事は個人的見解ではなく、自分と共にいる多くの信徒達から支持を得ていることを強調する為です。4節で「私達」と言う。これはその人達とガラテヤ諸教会の人達全てを含みます。彼はガラテヤの人達との間にある深い断絶を埋めようとこの手紙で全力を注ぎます。しかしその前に、両者を包み込む共通の真理を先ず明らかにします、私達が互いに同じ地盤に立っていることを相手が認め、そこから始めなければ、彼の努力は全く虚しいものになってしまうからです。

 私達も相手と自分の違いに悩む時があります。信徒同士の場合、自分の信仰のあり方と違うち感じると、相手の生き方、人間性を受け入れられなくなってしまう場合があります。その時、違いではなく、同じところを捜すことが大切です。立場にいることに気付くと少し気が楽になります。信仰のあり方は違っても、同じ主を信じている者同士。或いは同じ主に愛され、支えられている同士と見ることによって、相手を自分と同じ人として見られるようになるからです。とは言え、全く考え方が違う相手と同じ群れの中で生きると息が詰まるような辛い思いを思いをします。ですから、彼はキリストの贖いの恵みについて記し、主が「今の悪の時代から私達を救い出す為に、私達の罪の為にご自分を与えた」と言います。お互いを人間的見方でなく、神の見方で見させ、自分も相手も悪の支配から救い出された罪人だと教えます。私達の罪の為に自分を与えたキリストを前面に押し出し、互いを罪人という共通基盤に立たせるのです。彼は、彼が伝えた福音とは違う教えに移った人々を責めません。しかし彼は、彼らに祝福を与える立場にいることを3節で示します。同じ基盤は、同じ恵みの基盤でもあります。私達は、互いに主イエスと父なる神によって教会に集められ、真理を知らされ、信じる者に与えられる幸いを伝える務めを持つからです。信仰のあり方が違っても同じ恵みに生かされています。自分の信仰が聖書に真に基づいているか、主の御心に従っているか、自分の信仰を吟味し、謙虚に反省し、正しい信仰によって生きる責任が互いにあります。私達が同じ基盤の上に立つ者であると互いに知る時、教会は豊かに成長します。