メッセージ(大谷孝志師)
主は私達を見ています
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2018年9月2日
マルコ2:1-12 「主は私達を見ています」 牧師 大谷 孝志

 四人の人が中風の人をイエスのいる所に連れて行こうとしましたが、戸口まで隙間の無いほど人々が集まっていて、主に近付くことができませんでした。今の教会が人で一杯になってしまい、遅く来た人が中に入れない状態は、夢のまた夢です。彼らが病人を連れてきた家は、ガリラヤ湖畔のカペナウムという町にあったペテロとアンデレの家と思われます。この家は主イエスの伝道活動の拠点となっていました。他の庶民の家と同じように、木と漆喰でできていて、屋根の上を歩くことも、穴を開けることも比較的簡単にできました。彼らは群衆に阻まれ、中に入れず困りました。彼らは上を見上げた時に、解決策を見出しました。下からの道が塞がれていても上からの道があると彼らは気付いたのです。私達も困った時は、周囲の人に助けを求めるのではなく、上を見上げ、主に助けを求めればよいと教えられます。とは言え、上からの道を開くには、漆喰の天井に穴を開け無ければなりません。下にいる大勢の人達はどうなるでしょう。身動きが取れない人々の上から土のかたまりがどっと落ちてくるのです。とんでもない話ですが、彼らは実行しました。状況を考えると酷い話ですが、聖書は淡々と四人の人達がした事を記しています。それだけではありません。イエスはその人達の信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言ったのです。彼らは何とかして中風の人をイエスの所に連れて行きたいと思い、実行しました。しかし、屋根を剥がして、病人を床ごと吊り下げるほどの穴を開けるのは、下の人達の事を考えたら躊躇するのが当然です。彼らは、自力で歩けないという肉体的条件を克服させる為に、中風の人を床に載せたまま運び、イエスのいる家まで来ました。しかしそこで、戸口まで隙間の無い程に集まった人々に物理的に阻まれました。

 教会生活に当て嵌めてみましょう。礼拝に行くには体が疲れる。仕事がある。勉強がある。家族や近所、友だちとの付き合いがある。教会に行こうとする人の行く手を阻む様々ものがあります。その中でも、他人に迷惑を掛けてまでも教会に行くことは大切かという問題は、私達にとって大きなものであると思います。

 イエスはもうもうと立つ土埃の中で「彼らの信仰を見て、『子よ、あなたの罪は赦された』」と言ったのです。彼らの信仰とはどんな信仰でしょう。それは、何としても中風の人をイエスの所に連れて行きたいとの思いを第一にした信仰です。その為に、全ての障碍をはね除けた信仰です。そのひたすらイエスに近付きたいと願ってした彼らの行動の中に、彼らの信仰が現れているのを主は見たのです。ですから主は、「子よ、あなたの罪は赦された」と言ったのです。彼らの信仰がこの中風の人を救ったのです。私達もこの四人の人々のように、私の家族を、知り合いを救って下さい、教会を成長させて下さいと願うなら、私達の生き方、行為に信仰が現れているかどうかをイエスは見ていると気付きましょう。主イエスは、私達がイエスを第一としているか、どんな障碍に阻まれても、イエスに近付こうとしているかを見ています。イザヤ59章に「見よ、主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない」と有ります。その人を何としてもイエスの所に連れて行きたいと願い行動しているか自分を顧みましょう。その信仰が無ければ主に見えません。克服しなければならない問題があるのは私自身と気付き、何よりも大切な事として、一心に「主よ、救って下さい」と主に願い、行動しましょう。主は、私達の信仰を見て、褒めて、願いを叶えて下さいます。