メッセージ(大谷孝志師)

主の力を信じ求めよう
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2018年9月9日
マルコ7:24-30 「主の力を信じ求めよう」  大谷孝志牧師

 今日の箇所のイエスに冷たい印象を受けると思います。実は、マタイにも同じ癒しの奇跡でもっと冷たい印象を受ける記事があります。登場する女性はギリシア人でなくカナン人ですが、彼女が異教徒であることに変わりありません。マタイの方が詳しいので、最初にマタイの記事を学びます。

 マタイは、彼女の「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんで下さい。娘が悪霊に憑かれて、酷く苦しんでいます」という叫びも記します。ここで彼女が「娘を憐れんで」でなく、「私を」と言い、更に24節では「私を助けて」っているのはなぜでしょう。彼女が親として子の問題を自分自身の問題と受け止めているからです。親であればそうなります。しかし主は沈黙したままです。主は理由が有ってそうしているのですが、弟子達は彼女に煩わしさを感じます。主に「彼女の願いを聞いて、去らせて」と願います。私は、必死になっている人の苦痛を他人事にしか感じない弱さや冷たさを自分も持っていたことに気付き、ぞっとすると共に恥ずかしくなりました。

 この箇所は、主と彼女の対話を通して、大切な事を私達に教えています。主は何の為に世に来たのでしょう。全ての人を救う為、恵みと平和を与える為です。前向きに生き生きと生きられる道があると知らせる為です。主は彼女を救おう、彼女と娘を救おうとしているのです。主は全ての人を愛しているからです。彼女に対して沈黙を続けたのは、彼女がまだ主に救われるに相応しい人になっていないからです。勿論主は、無条件に手を述べて人を癒すこともありますが、このように相手が変わることを求める場合もあります。彼女は来て、主の前にひれ伏しました。その姿を想像してみて下さい。恥も外聞もなく主に全面的に服従したのです。彼女にとって主はそうするに相応しい方だったからです。私は第二次世界大戦中激しい迫害を受けた教会で牧師をしました。当時の牧師や教会員は迫害の中で、周囲の人達にどう見られようと、必死に教会に来て、礼拝を守り続けました。主はそうするに相応しい方、礼拝がその人達にとってそれだけの価値あるものだったからです。主を信じ、願い求めるなら、私達もこのように自分を主に明け渡し、主の御前にひれ伏して生きることが大切と教えられます。

 主は、ひれ伏して必死に助けを求める彼女に「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないこと」と彼女の要求を拒否します。「小犬」は異邦人の蔑称ではありません。小犬は家の中で飼われていて、主人の食卓から落ちるパン屑は食べました。とは言え、人間を小犬扱いする主の言葉には抵抗を感じます。しかし主は、彼女に自分と神との関係を見直す機会を与えようとしたのです。主の前の自分を自覚させたのです。

 マタイ15:24のイエスの言葉は、神との関係が壊れているのを自覚できないユダヤ人達が、それに気付き、神との関係を回復できるようにする為に自分は世に遣わされたという意味です。しかし女性の幼い娘の癒しのこの出来事は、異教徒つまり全ての人が救いの対象であることを示しています。誰もが、主の十字架により罪を赦されて救いの対象となっているからです。

 マルコは簡潔に、汚れた霊に憑かれた幼い娘の母親が、娘から悪霊を追い出すようイエスに願ったとだけ記しています。27節の言葉は、マタイの明確な拒否より、彼女の願いを柔らかく断った印象を与えます。主はサマリアの人々を救い、ゲラサ人の地で悪霊に憑かれた人と多くの異邦人達を救い、会堂司ヤイロの娘を救いました。主のこれらの人々への対応は相手によって様々に異なっています。しかし、どんな人が、どんな求め方をしても、主は救って下さったのです。主が世に来た目的はその為だからです。

 マルコは、主が突き放した印象を与えないような書き方をしています。このような主の言動は「家に入って、誰にも知られたくないと思っておられたが、隠れていることはできなかった」という状況の中で奇跡が行われたからでもあります。主は全ての人を救う為に世に来ました。しかし人としてこの世に来る必要がありました。人々に神の国の福音を宣べ伝える為、全ての人の罪を背負って十字架に掛かって死ぬ為には、人としてこの世に生きなければならなかったからです。主は神でありながら人でもあったのです。ですから、人としての限界も持っていました。主が人として来たことの重さ、十字架に掛かって死ぬ為に人となったことの重さ、そしてここまで自分を低くした主イエスの愛の深さを、聖書は私達に伝えています。

 主の彼女への言葉は、意図的沈黙や拒絶の後のマタイと違い、確かに優しさを感じます。先に言ったように小犬は蔑称ではありません。ユダヤ人と異邦人では、神との関係に大きな違いがあるのは分かっていますか、という主の優しさが込められた問いになっています。それによって、彼女の答えも、機知に富んだ響きを感じさせるものになっていると私は思います。

 確かに旧約時代は神はユダヤ人の神であり、彼らの願いを叶えました。しかし、主イエスを信じるなら誰でも救われる新約の時代は、謙虚に全てを主に委ねて願えば、誰でも叶えられます。主はその為に十字架に掛かって死に、復活して、今、全ての人に救いの手を差し伸べているからです。

 彼女は自分を食卓の下の小犬と認め、小犬でも子供達のパン屑は頂くと答えます。「そこまで言うのなら」はマタイの褒め言葉とは違いますが、彼女の謙遜と熱意を認めた言葉です。彼女が家に帰ると、悪霊は既に出ていて、娘は癒されていました。主は言葉によって彼女の願いを叶えたからです。最後にピリピ4:6-7を読みます。主は近くにいます。主を信じましょう。