メッセージ(大谷孝志師)

主を素直に信じる
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2018年9月16日
マルコ8:11-21 「主を素直に信じる」  大谷孝志牧師

 主イエスは再び素晴らしい奇跡をして、人々の心と体を満たしました。6章の五千人給食に続いて、四千人に給食をしたからです。主には神が共にいるので不可能はありません。四千人もの群衆は三日も主と共にいました。五千人の時より状況は深刻でした。人々は食べる物が無く、このまま帰ったら、途中で倒れることは容易に想像できました。人里離れた場所なので、主に言われても、弟子達はパンを手に入れられません。自分達にはどうにもなりませんでした。私達も自分ではどうにもならない状況に置かれる時があります。人間は皆、弱く出来る事には限りがあるからです。

 6章で主は、五つのパンと二匹の魚で男五千人を満腹させ、残ったパン屑が十二のかご一杯になりました。この後、どれ程の間が有ったかは不明です。弟子達が忘れるほど時間が経っていないのに、彼らはその奇跡、主の驚くべき力を忘れていた印象を与える書き方をマルコがしています。このように福音書記者は、弟子達の無理解をたびたび記しています。それは私達信仰者への警鐘なのです。私達が、主の豊かな恵みを味わいながら、直ぐに忘れ、困窮すると自分の力のみを見てしまうことへの警鐘です。聖書は先ず主に目を注ぐよう教えます。主にこそ救いがあるからです。

 弟子達は人々の必要に応えられません。私達も家族や友人を教会に誘いたい、救われて欲しいと願っても、自分の力では無理だと思うと落ち込むことが多いのではないでしょうか。自分を見た時、私達が自分を過小評価してしまうからです。彼らは主に「パンは幾つあるか」と尋ねられました。七つと答えます。五千人の給食の時と同様、群衆の数に比べ、余りにも少量でした。私達が注目しなければならないのは、主はそれを人々を満腹させる量に変える力がある方だという事です。弟子達は自分では気付かなかったけれど、人々の必要を満たす物に変えられるものを持っていたのです。

 私達も世の人々に救いが必要なのは分かっていても、自分を思うと小ささや弱さの故に伝道は無理と思ってしまいます。しかし七つのパンは主に祝福され、主に用いられ、弟子達が配ることによって、四千人が食べて満腹したのです。私達もこの世で自分にできる様々な事をしながら生きているはずです。自分のものや力を主に祝福して頂けばよいのです。主の教えを頂けばよいのです。聖書を読み、祈る中、主を礼拝している中で、こういう事が出来る、この人にはこうすればよいと、自分に語り掛ける主の声を信仰によって聞き取りましょう。私達が自分をどう思うとも、主は私達の人生を用いて伝道させ、人々を主の恵みでその人生を満たさせて下さいます。弟子達のように主の大きな力、深い愛を実感でき、感謝できます。

 この奇跡の噂を聞いたからでしょう。パリサイ人達が、イエスが神に遣わされた方であるならその証拠を示せと迫まりました。聖書は私達に世の人々が求めるものと神が与えようとしているものは違うと教えます。私達が信仰や教会の事を聞き流せないくらいに話したら、それを聞いた人は、それが真実かどうか確かめたくなるかもしれません。パリサイ人達が確かめずにいられなかった程、主はその力ははっきり示したのです。でも主は、心の中で深いため息をつきました。彼らが求めるものがそれと違っていたからです。マルコでは何のしるしも与えられないと主が言い、マタイにはヨナのしるし以外は与えられないとあります。ヨナが三日魚の腹の中にいた後、吐き出された事が主の十字架と復活のしるしだと主は教えたのです。

 更に大切な事があります。弟子達が舟に乗ると、彼らはパンを持参するのを忘れたと気付きました。すると主はパリサイ人とヘロデのパン種に気を付けよと命じました。「パン種」は小さなものが全体をふくらます事から、神の国の譬えにも使われます。でもここでは全体に悪い影響を与えるものを意味しています。主は、彼らの信仰が正しく保たれるように配慮しているのです。人は、外から入るものに影響されやすい弱さを持つからです。主は、彼らのその時々の重大関心事である事を使い、大切な事を教えます。

 しかし彼らは、自分達がパンを持っていない事で議論し、責任の擦り合いを始めてしまいます。私達も、自分達の問題を協議する時、聖書の御言葉、主の御心を勝手に解釈して、議論してしまう時があります。御言葉の意味を、主の御心を、まず心を静めて聞こうとすることが大切なのです。主が「ぱん種」を取り上げたのは、彼らには、この世的考え方、自分の心の欲求という「パン種」に引きずられ易い弱さがあったからなのです。

 四千人への給食は、人里離れた所にいてパンを手に入れられなければ、空腹で倒れる人も出る状況の中で行われました。人間的に、この世的に見れば困窮状態です。しかし主が共にいるから、現実はそうなのではないのです。弟子達の持っていたパンと魚で、食べる物のない大勢の群衆を満腹させる主が共にいるのです。その力を持つ主が彼らと共にいるのです。私達も主が共にいるから、自分のものに頼らず、主に頼ればよいのですが、弱く、主の力の確実さを確認しないと不安になってしまうのが私達です。実は、これらがイエスが言うパン種なのです。なぜ不安になるのでしょう。過去の恵み体験を忘れ易いからです。それだけではありません。「でも」「やはり」と躊躇し、今の現実に当て嵌められない弱さを持っているからです。ですから心を新たにしましょう。今、自分が生きる世界で見聞きしている事を主の御業だと見抜き、素直に主を信じましょう。私達は、主が共にいる事実の重さ、確かさを忘れずに、どんな時でも安心と思えば良いのです。