メッセージ(大谷孝志師)

ヨブが苦しんだ理由
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2018年9月23日
ヨブ10:1-7 「ヨブが苦しんだ理由」  大谷孝志牧師

 私は月に一度ヨブ記を通して説教させて頂いています。準備する中で、自分自身がヨブの苦しみをどれだけ感じ取っているかを考えさせられています。私も72年の人生の中で様々な苦しみを体験してきました。でも、人は誰でもその人なりに、大きな苦しみを経験してきたと思います。こんな苦しみはもう嫌だと思ったこともあると思います。しかし今生きているから、嫌だと思えるのです。ヨブも生きているからこそ苦しんでいます。そして生き続けることに疲れを感じ、絶望しかけています。災害や事故、病気で死んだ主を信じた人々は、瞬間的に死んだ人は兎も角、死ぬ時までは苦しみます。しかし死ねば、今主の御許で安らかに過ごしています。だからヨブは生きていることに耐えられず、なぜ死ねないのかと主に訴えます。

 私はこれ程の苦しみを体験したことはありません。こんな苦しみがいつまで続くのかと思ったことはありあます。でも、不思議と絶望しませんでした。なぜか希望を持てました。自分で何とかしなければと思い、更に、何とかなると思ったからでしょうか。勿論、主イエスを信じて61年、伝道者になって48年、主と共に歩んできました。しかし最近になって、主が私を生かしていると考えられるようになりました。それ迄は考えもしませんでした。自分でこの状況を切り抜けなければならないと必死でした。ヨブも苦しみ喘ぎ、命を忌み嫌うと言います。主が自分を生かしているとは考えられなかったのです。もしそうなら、神がこんな苦しみを与える筈はないと思うからです。彼は自分中心にしか物事を考えられない自分に、自分の苦しみからしか物事を見られない自分に気付けないでいるのです。更に、ヨブは神に「あなたは人間が見るように見られるのですか」と聞きます。彼はその時、自分を神と対等の位置に置いていることに、自分の思いだけで、神がしている事をこうと決め付けているのにも気付けないのです。

 苦しむヨブが正しい人として生きてきたことは、神も認めています。これはヨブ記の大前提です。ヨブ記は、その彼を用いて、人はどう生きれば神に喜ばれる者となれるかを私達に教えています。ヨブは真実を知りたいと真剣に願います。彼は「あなたは人間が見るように見られるのですか」と神に言うように、神が人間のように自分を見るから私を苦しめていると考えます。友が彼の言葉に答えても、神は沈黙のままです。この彼の姿は、自分で思い巡らすしか手段を持たない私達の現実を表しています。彼は自分は混乱しているとは思っていません。しかし彼は正にパウロが言うような「空を打つような拳闘(1コリ9:26)」をしています。私達も人を思うように神を思わないよう気を付け、心を静めて聖書を読み、御心を求めましょう。

 ヨブは主権は神にあること、全ての事が神の御手によって決定されていることを知っています。彼は神が下す災いに耐えきれないと苦しんでいます。しかし彼は生きています。だから神に訴え続けられます。しかしそこに希望があるでしょうか。彼が、僅かな明るささえも持てない惨めな状況の中で自分が生きなければならないというのは、本当に辛いと思います。

 ヨブは自分の死が近いのを感じています。それがこの状況の中で彼が持ってた唯一の希望だと言えます。そして僅かに残る日を少しでも明るく振る舞いたいと神に訴え掛けます。絶望しかねない状況の中で、彼は希望を持ち続けています。ヨブ記は神を信じる者の強さがここにあると教えます。彼は生きているから神に期待でき、生きているから神に近付こうとします。神はその彼を御心のままに自由に扱います。しかも彼は、自分に起きた事の理由を神に尋ねる以外に自分で自分をどうすることもできません。彼にとって、神は理不尽な存在、語り掛けても答えない方でしかありません。

 とは言え、彼は死後の世界も恐れます。闇と死の陰の地で、死ねばこの世に戻れません。混沌とし、何が有るのか全く分からず、神から断絶され、自分を認識できなくなくなる滅びの世界です。彼は神を信じています。死んだことがありません。ですからそう想像するしかないのです。イエスの十字架の贖いによって救われていない世の人々の中にも、死に計り知れない恐怖を感じる人がいます。私も救われる以前は死に対して同じような恐怖心を抱いていました。死は虚無と暗黒の世界で、闇の中に自分はいつまでも落ち続け、他者との関係が断たれ、やがて自分が何者であるかも分からなくなると思いました。私は救われて永遠の命を与えられました。死は天国の門と知り、死は恐ろしくなくなったのです。しかしこの時のヨブ同様、死んだことがなく、死者の声も聞いたことがないので、この世と断絶されると思ったし、死に寂しさを感じたのは事実です。でもそれに勝る希望が与えられていました。死ぬとこの目で主を見、神と共に生きられるのです。平安を与えられ、安心して世に生き、死ねると信じられたのです。主イエスを信じると、生と死を超えた真実の平安を与えられます。だから、イエスを信じ、救われ、キリスト者として生きることは素晴らしいのです。

 ヨブはこの世で酷い苦しみの中に生きているし、死後についても希望がありません。ヨブの苦しむ姿は全ての人の為なのです。多かれ少なかれ、世の人々はこのような人生を生きているからです。だからこそ、主はヨブ記を通して私達に、主の十字架を知らずに、悩み苦しみの中で不安と恐れに喘ぐ人が自分の周囲にいると知ったら、真理を伝える時、福音を知らせる時ですと語り掛けています。今も主は、全ての人を救おうとしているからです。ヨブの苦しみを知り、今与えられている幸いを心に刻みましょう。