メッセージ(大谷孝志師)
違うから配慮が必要
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2018年9月23日
1コリント12:12-26 「違うから配慮が必要」 牧師 大谷 孝志

学校でも職場でも地域でもそうですが、教会の中にも誰一人同じ人はいません。生まれ育った環境も価値観も皆違います。考え方も生き方も違います。しかし、主の目から見たらどうなのでしょうか。13節に「ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです」とあります。パウロはユダヤ人とギリシア人、奴隷と自由人という当時の社会では東と西ほど違う人であっても、皆、同じ人間と教えます。神から見たら、皆同じ価値を持つ大切な一人ひとりです。

 神から見れば皆、大切な一人ひとりですが、なぜ違いがあるのでしょう。それは、一人ひとりがキリストの体であって、一人ひとりがその部分だからなのです。経済力、自制心、向上心、協調性、社交性の度合いについても一人ひとり能力が違います。その違いがあるからこそ、互いに大切にしあい、支え合い、補い合えるのです。学び合い、反省することもできます。違いは大切なものなのです。

 しかし違いがあることで、教会の中に問題が生じることがあるのも事実です。自分と他人との違いに敏感になり過ぎて悪い方に向いてしまうことがあります。この手紙の読者は、主を信じ、主の愛に生かされていた人々です。パウロは、彼らが主の愛の基準でなく、自分の見た目や受け取り方で、他人だけでなく自分をも決め付けてしまっていると気付いています。人は、主の愛から離れてしまうと二つの方向性に陥りやすくなります。一つは自分を教会から切り離そうとすること、もう一つは相手を教会から切り離そうとすることです。人は一人では生きられないので、できるだけ同じ考えの人と一緒にいるようにします。しかし努力しても、一緒にいることに耐えられなくなる場合もあります。例えば、一生を一緒に過ごそうと決心して結婚しても、耐えられなくなれば離婚します。自分から出て行く人もいれば、相手を追い出す人もいます。しかし、主を信じる人はそうであってはならないし、そうする必要がないことを、パウロは私達に教えています。

確かに事実は一つですが、同じ事を見ても、善いと言う人、悪いと言う人がいます。私達は主の愛から離れ、主を意識しないで、自分の思いだけで生きていると、見えていると思っても、見えていないものがあるのに気が付けないからです。

 教会にもできる人とできない人がいます。私はあの人のようにできないと考える時、自分を教会の中の人間でなく、外の人間、客と考えてしまっているのです。「私は手ではないから、からだに属さない」という考えです。コリント教会にも教会の活動はできる人に任せ、自分は礼拝に出席するだけになり、その内、教会から離れてしまう人もいたようです。また、その人がいなければ教会の状況が好転すると考え、「目が手に向かって『あなたはいらない』と言う人もいたようです。しかしパウロは、それらの人もキリストの体である教会の一員だと言います。

 教会は主に集められた人の集まりだからこそ、違いを認め合い、配慮し合うことが必要なのです。教会の中にそのような交わりができるなら、この世の中で、対人関係に疲れた人が、教会に来た時にほっとして自分の居場所がここにあると感じるのではないでしょうか。違いは向上心を促し、自分や人を高め、清めようとする気持ちを生みます。同時に劣等感や疎外感を生み、自分や相手を傷付けてしまう時もあります。違いは、主が教会に必要なものとして与えたものです。それがプラスに働くよう、互いに配慮し合いながら、共に歩む者になりましょう。