メッセージ(大谷孝志師)
真に必要なものは何か
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2018年9月23日
ルカ19:1-10 「真に必要なものは何か」 牧師 大谷 孝志

 ザアカイは取税人の頭で金持ちでした。彼はイエスを知らなかったようです。彼はイエスが来ていると知り、どんな人か見ようとしました。でも、興味本位でなく、真剣に見たいと思ったようです。背が低く、群衆の為に見られなかったので、先の方に走って行き、いちじく桑の木に登ってみようとしたからです。この町に入る前に、目の見えない人がイエスが通ると聞くと、「ダビデの子よ、私を憐れんで下さい」と叫び続け、すぐに見えるようにして貰いました。この人に比べると彼にはそれ程の真剣さは感じられません。真剣に見たいと思っても、興味半分の真剣さで、「イエスよ私を憐れんで下さい」と声を掛ける気持ちは毛頭無かったと思われます。なぜなら、彼は自分の本当の姿を知らなかったからです。それで、目の見えない人のような気持ちになれなかったのです。しかしイエスは彼の全てを知り、彼に呼び掛け、彼を救ったのです。

 目の見えない人は、社会保障制度の無いこの時代、物乞いで生活するしか無く、そんな状況から抜け出したいと願っていました。だから真剣にイエスに憐れみを求めました。ザアカイは背の低さに引け目を感じていても、金持ちでした。金の力で近付く友だちもいたでしょう。欲しいものは手に入れられたでしょうから、自分が実は哀れな人間とは余り感じないで生きてきたと思います。それでも先回りして、木に登ってまでもイエスを見たいと思ったのは彼の内に自分でも気付かない渇きがあったからではないでしょうか。私も高一の時、初めて教会に行きましたが、信仰の必要性を余り感じませんでした。そして聖書の非科学的な所を取り上げて、議論を仕掛けていました。それでも月に何回かは教会に行きました。やはり、自分でも気付かない渇きがあったからだと思います。しかし主は私の心の内にある虚しさを知っていたのです。そしてCSのクリスマス会、燭火礼拝に導いてくれたのです。そこで私は主イエスを信じたいと思いました。とは言え、なかなか信じ切れなかったのですが、主イエスの方から私に語り掛け、信じる者に変えてくれました。キリスト者になり、私は救われました。本当に感謝です。

 ザアカイもイエスを信じて救われたいとまでは思わなくても、惹かれるものを感じて、木に登りしました。イエスはその彼がいた木の下に来て、呼び掛けました。しかも「ザアカイ、急いで降りてきなさい。私は今日、あなたの家に泊まることにしているから」と彼の名を呼んでです。彼は自分がちびで罪人のザアカイと蔑まれていたのを知っていました。彼はそんな人々を見返してやれたと思ったでしょう。しかし彼は、イエスを迎え入れて大きく変わりました。それまで馬鹿にしていた貧しい人々や騙し取っていた人々の立場に立てたのです。イエスの愛が彼の心に染み込み、心を満たしたからです。彼はイエスと一緒にいることに安心している自分に気付きました。肩の力が抜け、自分や周囲の人を素直に見つめられたのです。今迄はなくてならぬものとしてしがみついていた財産から自由になり、貧しい人々に財産の半分を施し、騙し取った人々に四倍にして返す決心ができました。彼は、真に必要なものは何かに気付き、幸いな人になれたのです。私達も金や物や人に頼ります。彼もそれらに頼って心から安心できなかったのに、主イエスを迎え入れた時、心から安心できたのです。今日の讃美歌のように、どんなものでもキリストには替えられません。主イエスが全ての全てだと気付くと、ザアカイのように変われます。暖かく豊かな思いで他人と共に生きられます。