メッセージ(大谷孝志師)

キリストの恵みが大切
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2018年10月7日
ガラテヤ1:6-10 「キリストの恵みが大切」  大谷孝志牧師

 私達日本バプテスト同盟は「聖書を信仰と生活の唯一の基準とします。」学校や職場の規則、地域のしきたりや申し合わせその他人間関係を規定する一切の制約を守るべきか守らざるべきかをこの聖書に照らして判断するのが私達バプテスト教会に連なる者の大原則です。なぜでしょうか。それは聖書には「神の福音」が記されているからです。福音とは良い知らせgood newsです。聖書には私達人間が幸せに生活できる方法、原則が記されているのです。確かにそうですが、私自身を振り返ってみると、聖書を自分流に解釈したり、自分の言動の正しさを自分に認めさせる為に聖書の自分に都合の良い所だけを取り上げたりしたことがあります。牧師として正に不謹慎ですが、皆さんにも多かれ少なかれそんな経験があるのではないでしょうか。聖書の言葉自体にも色々な意味があり、解釈が人によって違って使われることもあります。同じ箇所でも牧師によって全く違う説教になることもあります。パウロは今日の箇所で「アナテマ」という語をを8,9節で二度使っています。「呪われるべきです」と訳されている言葉がそれです。呪いというと藁人形と五寸釘を思い浮かべるかもしれませんが、原語は「神に捧げられた物」を意味します。言葉には善い意味と悪い意味の両方を持つ物があります。これも「神に受け入れられた物」と「神の怒りに渡された物・聖絶された物」の二つの意味を持ち、彼は後の意味で使っています。

 パウロは第二回と第三回の伝道旅行でガラテヤ地方で伝道しました。三回目の時、エペソにいた彼は、その時にガラテヤの人達が、最初の時と余りに大きく変わってしまったのに憤りを感じてこれを書きました。ここでは彼らを追求していません。正しい福音を信じる者に与えられるキリストの恵みから離れていた彼らが悪いのは確かです。しかし、もっと悪いのは彼らを間違った方向に引きずっていった人達なのです。彼はその人達こそが呪われるべき者なので、まず、強い調子で彼らを非難しています。彼らはユダヤ人キリスト者でした。パウロはユダヤ人でも、主に異邦人伝道の使命を与えられていました。人が救われるのは、ユダヤ人キリスト者が言うように律法を守ることによってではなく、福音を受け入れる事、つまり、主イエス・キリストを信じる信仰によって救われると伝えたのです。ユダヤ人と異邦人は共に主イエスを信じ、共に神に喜ばれる生き方を目指していました。その条件の違いからここでも両者の間に問題が生じたのです。

 パウロは、律法を遵守することを救いの第一条件とするユダヤ人キリスト者が、自分が告げ知らせた福音に反するものを告げ知らせたとガラテヤの人々に言います。彼らは福音と信じているが、福音ではないからです。

 彼は「呪われるべき」と厳しい言葉で語り、彼らと彼らが伝えた偽の福音を切り捨てます。それは彼らが伝えた律法を遵守しなければ救われないという教えは、神の御心に反するものだからです。律法は神が与えた素晴らしいものです。ユダヤ人はそれを完全に守ろうとしました。でも不可能でした。だから主が十字架に掛かって死んだのです。主を信じるだけで人は救われ、真に神に喜ばれる者になれます。彼らの教えでは神の計画が無になってしまうので、彼が伝えた福音に立ち返らせようとしたからです。

 それにしても、ガラテヤの人達がパウロが伝えた正しい福音を捨てたのはなぜでしょうか。彼の手紙と「使徒の働き」の彼についての記事を読むと、彼は誤解を受け、中傷や攻撃もされています。人々が偽の福音に移ったのは、<火のない所に煙は立たず>と言うように、彼の言動にそうさせるものがあったからです。彼に「人々に取り入ろうとしている」「人々を喜ばせようと務めている」と受け取られるものがあったからです。Ⅰコリント9:19-23にあるように、彼は「ユダヤ人にはユダヤ人のように…弱い人達には弱い者になりました」。ガラテヤの人達はパウロについての様々な話を聞く内に、パウロが、自分の内にはっきりしたものが無く、相手に迎合し、媚びを売っているようにしか見えなくなり、彼のことが分からなくなったのだと思います。彼を人間的にしか見なかったからです。彼は復活の主に会って以来、徹底してキリストの恵みを人々に伝え、それを受けるにはどうしたら良いかを教えてきました。他人には無節操と思えたかもしれないが、それは色々な生き方をする人々を何とかして救う為で、彼の内では首尾一貫したキリストの福音の為という明確な基準があり、一人でも多くの人がキリストの恵みを頂いて欲しいとの思いがあったのです。「今、私は」は、この手紙を書いている今の自分です。「人々」は、キリストの福音に反するものを宣べ伝えた人々ではなく、この手紙の読者です。彼はここでこの手紙を書いた理由を読者に知らせます。彼らに取り入ろうとしているのではないし、自分を誤解した彼らの気持ちを変え、自分を正当に評価させようと努力しているのでもないし、まして神に自分の努力を認めさせようとしているのでもないと彼は言います。「もし今なお」は、教会を迫害していた時に、彼が神ではなく、ユダヤ人の歓心を買い、彼らを喜ばせ、自分を認めさせようとしたことへの反省から出た言葉です。彼は今は、キリストの恵みに生かされて、人々を喜ばせる為でなく、唯、神に喜んで頂く為に手紙を書いています。神の計画を、キリストの恵みを少しでも無駄にしない為です。主は、ご自分を信じる者を無条件で救う為に十字架に掛かって死に、復活し、キリスト・救い主として今私達と共にいます。私達もパウロのように、キリストの豊かな恵みに生かされています。この恵みを大切にしましょう。