メッセージ(大谷孝志師)
神が喜ぶ信仰
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2018年10月7日
ルカ18:9-14 「神が喜ぶ信仰」 牧師 大谷 孝志

 パリサイ人は神に喜ばれ、義とされる信仰の持ち主と考えられ、取税人は神に嫌われ、義とされない生き方をしていると一般的に考えられていました。しかし、神の見方は逆だとイエスは教えます。イエスはこの譬えで、神に喜ばれる信仰とはこの取税人のような信仰ですと教えたのです。こう教えた理由は、神を信じている人々の中にも「自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たち」がいたからです。パリサイ人と取税人の祈りを比べてみるとその祈り方の違いがよく分かります。「パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした」とあります。彼は口に出してはいないのです。「一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った」とあります。パリサイ人は祈りの中で、他人と比べて自分を誇っています。しかし自分が正しいと口に出すのは気恥ずかしい、それに自分がそれ程高慢な人間ではなく、謙遜だと少しでも神に認めて欲しかったので、口に出さずに祈ったのです。それに加え彼は正しい生き方ができることを神に感謝しています。彼の生き方はユダヤ人にとって理想的で、神に喜ばれる信仰の持ち主と思われる生き方でした。しかし、神が正しい信仰の持ち主としたのは、彼ではなく、「神様、罪人の私を憐れんで下さい」と胸を叩いて言った取税人だったのです。パリサイ人はいつも神を意識し、神中心の生活をしています。彼の何処が間違いで、取税人の何処が正しかったのでしょう。

 取税人は自分の内に何の正しさも見出せなかったし、これからも正しく生きる自信もありませんでした。今の生活から自分の力では抜け出せないと分かっていました。だから神に憐れみを求めたのです。彼は、自分が神に憐れまれ、神の恵みを頂けなればどうにもならない罪人だと思うからです。パリサイ人は神に憐れみを求めていません。十分神に喜ばれる生活をしてきたし、これからも続けられると思うから憐れみを求める必要を感じていないのです。人が正しい生活をしているから神は正しい人と認め、恵みを注ぐのではありません。自分は正しい事ができる者ではないと認め、私を憐れみ、恵みを与えて下さいと神に心を向けて必死に願い求める人を、神は正しい人と認めるのです。私達は、あのパリサイ人のように、自分の生き方に自信を持ってはいないでしょうが、取税人のように、自分の罪を認め、神の憐れみを求めてもいないのではないでしょうか。神は自分が神の恵みが必要と素直に認め、神の愛と憐れみを求めることを求めているのです。