メッセージ(大谷孝志師)

主はどんな方ですか
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2018年10月14日
マルコ8:22-30 「主はどんな方ですか」  大谷孝志牧師

 聖書は誰の為に書かれたのでしょう。世の中の教会に行ったこともない人々にイエスがどんな方かを知らせる為ではありません。そうだとしたら、マタイによる福音書をあのよう片仮名の羅列で始める筈はないからです。初めて聖書を読んだ私のある友人は、最初の頁で嫌になったと言いました。

 今日の箇所の前に、四千人への給食の奇跡の後、イエスが「まだ悟らないのですか」と言ったとあります。言われた人々は、主と行動を共にし、主の素晴らしい教えや驚くべき奇跡を見聞きしてきた弟子達です。実は私達と彼らは同じなのです。私達も教会に来て主を礼拝し、御言葉を戴き、兄弟姉妹との交わりや教会の様々な活動を通して、主が共にいて、働いている様々な事柄を見聞きしてはいます。しかし主イエスの事、神の計画が、本当には分かってはいないのです。ですから、主は私達にも「まだ悟らないのですか」と語り掛けています。今日も主は大切な事を教えています。

 ベツサイダに着いた主は、人々が連れてきた目の見えない人の目を見えるようにします。聖書はこの癒しを詳細に記すことで、弟子達が悟れなかった理由を教えているのです。彼らが、自分達は見えている、分かっていると思っていても、実は見えていない、分かっていなかったからなのです。

 主は7章の耳と口が不自由な人の癒し同様に、彼を連れて来た人々から離し、連れ出します。私達の信仰もそうですが、信仰は個人的出来事です。7章同様、主が唾をつけ、手や指で触れた準備段階の後で、癒しが言葉によって行われました。主が「何か見えますか」と聞くと、彼が見えるようになったからです。しかしここで主が彼に聞いたのは、分からなかったからでなく、彼自身に確認させる為です。彼は、木のようだが歩いている人が見えると答えました。するとまだはっきりとは見えなかった彼の両目に主は再び両手を当てました。ここに、イエスとの触れあいにより彼が見えるようになったことがはっきりと示されています。私達もイエスとの人格的触れ合いによって救われたことを心に刻むことが大切と教えられます。

 さて、目がすっかり治る前に「彼がじっと見ていると」が付け加えられています。私達がイエスに救われ、物事がはっきりと分かるようになるには、私達自身が物事を真剣に見つめるという私達自身の意志と行動も必要と教えられます。主は私達を救いますが、救われた者として生きる為には、私達自身が救われたとの自覚を持って生きることが求められるのです。

 このように、ペテロのキリスト告白と主に従うことについての大切な教えの前に、目の見えない人の段階的癒しの奇跡の記事があるのは、私達の信仰も段階的に成長することを教えるという大切な目的があるからです。

 私を例に挙げます。私は主を信じましたが、最初からはっきりとは信じられませんでした。16歳の時、主が語り掛ける声を聞いたのは確かです。しかし、主をどう信じ、どう従うかをはっきり理解できた訳でのではありません。今考えると、その信仰は自分の思いを投影したものに過ぎないものでした。それでも、そこから今に至る私の信仰の成長が始まったのです。

 さて、イエスと弟子達はガリラヤ湖の北端のベツサイダから50㌔ほど北にあるピリポ・カイサリアの村々に出掛けました。その途中で、主は「人々は私を誰と言っているか」と尋ねます。主がその事を知らないからではありません。主がどんな方であるかを悟れないでいる弟子達の為です。私達も教会に来てイエスの存在を知ります。イエスがどんな方かを知りたくて人々の話に耳を傾けます。イエスは様々な教えを説き、奇跡を行い、捕らえられ、十字架に掛かって死んで復活したと、牧師や教会員から聞きます。しかし私達自身は主に出会っていません。主についての人間の側からの知識、評価を聞いたに過ぎません。これに対し、弟子達は主と共に行動し、直接主を見聞きしています。自分達は主について知っていると思っています。しかし、主はそれが彼らの思い込みと知っていたのです。だからまず、人々がイエスを誰と言っているかを彼らに尋ねます。彼らが挙げたのは6:15と同じ、ユダヤ人にとって特別な人々です。主はそれ程高い評価を得ていました。しかしその人々は、神が特別な使命を与えて世に遣わした人々に過ぎず、それらは人間の側から見た主の評価・知識だったのです。

 主は全ての人を救う為に神が世に遣わした方です。弟子達が人々と同じ評価、知識であっては、主は大切な使命を弟子達に託せません。彼らが主との触れあいの中で知ったイエスの霊的事実を口に出して言い、自分で確認する必要がありました。だから主は「あなたがたは私を誰と言うか」と尋ねます。私達が礼拝で使徒信条を告白するのは、自分の信仰を心の中だけに留めておくとぼやけてしまうからです。私も、口に出して自分や他人に話すことによって自分の信仰を自分で確認できた経験を何度かしました。口に出すことによって、自分の信仰が主に、他の人に伝えわるからです。

 ですから、この問いにペテロが「あなたはキリストです」と答えます。ペテロだけでなく他の弟子達もそう思っていた筈です。彼が答えたとあることによって、使徒信条で「私達は」でなく「私は」と言うように、信仰は個人的なもの、一人一人が自分の責任で告白するものであると明らかにされています。主は今も「あなたは私を誰と言うか」と問い掛けています。「私は」主イエスをどう信じ、どう従おうとしているでしょうか。私達も自分の口で「あなたはキリストです」と主に伝え、人に証ししましょう。主はその私達を喜び、どんな時も守り導きます。信仰が成長していきます。