メッセージ(大谷孝志師)
私達も陥りやすい誘惑
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2018年10月14日
ルカ4:1-13 「私達も陥りやすい誘惑」 牧師 大谷 孝志

 イエスは荒野で三つの大きな誘惑に遭いました。悪魔が主を試みたからです。悪魔というと、映画の中の恐ろしく気持ち悪い姿を思い浮かべますが、同じ映画の中でも、普通の格好をした人が出て来ることもあります。聖書に出て来る悪魔は、人にいたずらをしたり、悪い事をして人に恐怖を与える存在ではなく、人の悪い言動を神に告発する存在です。キリスト教は善の神と悪の神が対立する二神教ではなく、唯一の神を信じる一神教です。悪魔も天使も唯一の神の支配下にあります。私達が悪魔を警戒しなければいけないのは、神は人にも悪魔にも自由を与えているからです。悪魔は人を神から引き離したり、背を向けさせることに生き甲斐のようなものを感じながら活動しています。神がそれを許しているのは、人が自分の自由な意志で、神を礼拝し、神の愛の中に生きることを望むからです。

 最初の誘惑は食べることについてです。主は四十間、悪魔の誘惑を受けます。何も食べず、その期間が終わると、空腹を覚えたとあります。誘惑を受け続けていたのですから緊張状態が続いていて、空腹を感じなかったのでしょう。その期間が終わると、空腹を覚えたのです。悪魔は人がほっとする機会を巧みについて誘惑を仕掛けてくることを知っておきましょう。次に悪魔は、主に神の力を使ったらどうだと言います。新年や祭礼に多くの人々が神社仏閣に詣るのはなぜでしょうか。御利益を得たいから、災いから逃れたいからです。自分の為に神の力に頼らせようとするのが、悪魔の狙いです。主は神に頼ることは否定しません。唯、自分の為に神に力を使わせようとするのはいけないと教えているのです。第二の誘惑で、悪魔は栄耀栄華が欲しければ自分に従えと誘惑しました。誰でもより幸せになりたいと望みます。また、人間だけが食べる為以外に動物を殺します。自分の為を最優先したくなる欲望を誰もが潜在的に持っています。悪魔はそこにつけ込み、自分さえ良ければいいじゃないかと誘惑してくるのです。第三の誘惑で悪魔は、神殿の屋根の上に主を立たせて、ここから身を投げよと言います。人に先の事は判りません。だから神が自分を助けると信じて行動せよとの誘惑でした。主はそれは神を試すことだと答えます。窮地に立たされた時はどうしたらよいのでしょう。主は何もしない道を選びました。自分が何かしなければと考える時、悪魔に誘惑されていると、自分さえ良ければと考える時、神は自分にとってどうでも良い存在になっていると気付きましょう。それは駄目なのです。全てを神に任せて、状況が変化するのをじっと待てばよいのです。神はその信仰を喜びます。